石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第四節 元治の變

福岡惣助諱は義比、幼名を菊太郎といふ。世々與力にして、人持組青山將監に屬し、祿百七十石を食めり。惣助天保二年五月二十三日を以て生まれ、資性穎敏倫に絶す。是を以て關澤房清等の一時權勢を得るや、惣助の用ふべきを知り擢でゝ執政席留書となし、尋いで安政元年非人小屋裁許となせり。既にしてその職を免ぜられしが、時恰も幕府政綱を失し處土横議せしかば、惣助は家居して同志を會し、勤王の説を立てゝ一の向かふ所を定めんと謀り、文久三年藩侯齊泰の上せんとするや、從行陣營の法を改めんことを建議せり。是の年夏魚津御用を命ぜられ、秋九月命によりて飛騨に至りしが、歸路恣に京師に往き形勢を視察せしを以て罪を獲、その家にせらる。然るに元治元年六月五日會津の兵等長藩の吉山六郎を捕へしに、六郎が惣助の書を懷にせしを以て、は惣助を寺西要人の邸にし、尋いで獄に移し、此の年十月二十六日に至りて生胴に處せり。

                               福 岡 惣 助
 右惣助儀、御國典を犯し京都等へ罷越、長藩浪士に立交り、宮樣御内等へ取入不容易儀を取組、浪士等へ文書並に僞之建白下物を送り、右に付書物等を指上上を奉欺、御咎中他浪士等を自宅へ引入置、且つ他へ對し御國事を誹謗致し、於此表は正邪紛亂の説を以て同志を語らひ、御咎中をも不憚毎度他浪士と致會合候族、不屆至極、沙汰之限りに付生胴仰付

惣助人と爲り沈毅にして膽略あり。その刑場に臨むや泰然平生に異ならず。刑吏白布を以てその眼を蔽はんとせしに、辭して之を郤けたりき。死する時年三十四。辭世に曰く、『正氣貫天天不違。一刀到首意依依。自期建武楠公業。三世忠肝全武威。』『我が魂はやがて雲井にかけりつゝ御階のもとにはせまゐるべし』。明治二年十月その前罪を赦し、三年宗家朝倉欽吾の子亮五郎[後景 光]に原秩三分の二を與へて家を襲がしむ。次いで二十四年九月朝廷惣助を靖國神社に合祀し、十二月十七日正五位追贈せらる。