石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第四節 元治の變

千秋順之助は初諱を藤範といひ、後に藤篤と改む。顧堂・有磯・黄薇庵等の號あり。千秋範篤の次子にして、文化十二年八月晦日を以て生まる。幼にして明倫堂に學び、俊髦の名あり。天保十年訓導加人に擢でられしが、十二年請ひて之を辭し、昌平黌に遊びて舍長となり、才名齋藤竹堂と併び稱せらる。弘化二年順之助に歸りて新番組に班し、明倫堂助教加人となり、安政四年六月祿百石を賜はりて組外組に列し、明倫堂助教に進み、尋いで慶寧の侍讀を兼ぬ。人と爲り剛直、その書を君前に講ずるや、時務の得失を論じて忌憚する所なかりき。之を以て文久・元治の交屢主父子の諮詢に對へしが、その主唱する所は尊王の大義に從ひて屏の任を盡くし、幕下大諸侯たる面目を發揮せんとするにありき。然るに天下の形勢は漸く彼の持論を改めしめたるが如く、櫻田門の變あるに及び慨然として曰く、徳川氏の衰運已に現る。由來我がは譜代親と日を同じくして論ずべからず。宜しく今に於いて大義名分を明らかにしで進退を決せずんば、末路否運の幕府と共に亡滅の禍を招かんとす。抑我が藩吏にして外交上最も樞要の地位にあるものを聞番とす。然るに彼等概ね鈍眼にして時勢を見るの明を有せず。唯幕府の形骸を見て畏怖し、事大を以て絶對の長計なりと信ぜり。豈寒心に堪へざらんやと。彼の事を議するや論理周到、一亂れざるの感あり。是を以て大言壯語を快とする者に在りては甚だしく喜ばず。一尊王家の爲に敬重せらるゝも、亦その牛耳を執るものにはあらざりき。順之助又嘗て語りて曰く、我が朝中世以降天皇に諡號を奉らざるは實に一大闕典なりといふべし。今の時に當り朝廷若し之を定むるの議ありて、余輩幸に之に與るを得ば即ち畢生の願足ると。彼が時流と見る所を異にせるを知るべし。元治元年八月十六日順之助慶寧に扈從して歸りしとき小松に於いて捕へられ、竹田掃部の家にせらる。因りて上書して退の理由を陳辯せしが、十月十八日獄成りて切腹を命ぜられ、子堅次郎亦連座して流に處せられしも、齡尚幼なるを以て一類預とせられたりき。

 今般私儀愼被仰付、只今に相成申候而重々奉恐入候次第に候得共、若殿樣(慶寧)御引取の御一條御趣意之處今一應申上候。元來五月下旬筑前守(慶寧)樣御建白の儀は、中納言齊泰)樣より既に御建白も有之候通、鎖港攘夷の御實行相顯れ、並長州御父子御赦免の御取扱、浪士の取靜方を本文と被遊候事。其後六月五日會津・彦根御手合(テアヒ)等にて浪人狩有之、市中不穩。同二十四日福原越後伏見表へ罷越候節、筑前守樣被聞召、若此上異變出來候而は被朝延申譯御次第、其上人命の損亡等種々不容易儀有之候ては不相成。且長州の儀は御周旋在候儀故、今度も御取鎭の御取扱被遊度思召の段御評議も有之。然處翌日長州家臣より歎願之趣書面に申出候に付、長州の御周旋其後種々御手數にも相成候得共、御採用の廉も相見え不申、公邊よりは伏見警衞等の儀再三被仰渡候處、終に二條邊御固めと相成申候。右等の儀に付、兎角御周旋方果敢取(ハカドリ)不申内、廿七日夜御參内申來候砌より御發病被遊、御食事等御進不遊、御醫者中不輕御病の樣申聞、追々被募候ては不相成候に付、只今の内御引取被遊候樣申上候得共、猶又御建白被遊、長州留守居御呼立に而御説得有之候處、長州家老兩人入之儀願入、其儀を公邊へ此方樣より御願に相成候處、俄かに十八日(七月)公邊より長州御打拂の儀に御決定、長州に茂暴發いたし候模樣に候間評論仕候は、是迄の御周旋振も有之、長州打拂は不相成、御言行相違いたし御表裏之姿と相見え候ては、天下人心之向背にも相預り可申儀。乍長州に御一味、會津樣等へ御弓を被彎候も彌以相成不申。伊豫守(奧村榮通)へ中納言樣より御親翰も有之候得共、御病氣も御指募被遊候故、翌十九日に御發駕に相成申候。御上中御周旋向並御引取の儀は、私御勤め申上候儀に御座候。然處若殿樣御愼方被仰進候て、何共奉恐入候次第に御座候。何分今度の御成功も相立不申、且は御引取の御一條等御歸城之上奉申上度存念に付、松平大貳決心之場合に至り候上は、私に於ても同樣の覺悟に御座候得共、大貳に後れ申儀は、若殿樣厚き思召の御周旋も難相立御次第に相成候御趣意等、中納言樣へ奉申上候上速に決心可仕覺悟に御座候處、於道中縮(シマリ)茂被仰付候て、豫ての存念も不相立次第に付、先刻より段々申上候儀に御座候。右申上候上は、最早申殘し度儀も無御座候。此上は御慈悲を以て、一日も早く御刑法奉願度奉存候。此段御取成御座候樣奉願候。以上。
    子 八月十九日(元治元年)                      千秋順之助
〔千秋順之助上書〕
       ○

                                 千秋順之助
 右順之助儀、正邪紛亂の説を以て、彼是御國事の周旋致し、不容易御國難を引出し、且御國典を犯し、海津迄罷越候石黒圭三郎等へ越前路探索め儀及指圖候族、不屆至極に付切腹仰付

この宣告中に越前路探索といふは、小川幸三石黒圭三郎等が海津より歸路府中に留りてその地の動靜を探りたるは、順之助の發意に基づくものにして、職權を越えたる處置なりとせられたるなり。順之助死する時年五十。明治二年十月は順之助の前罪を赦し、遺子堅次郎に原祿三分の二を給せり。尋いで二十四年九月靖國神社に合祀せられ、十二月十七日特旨を以て正五位を贈らる。

千秋順之助詩稿 金澤市岸秀實氏藏