石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第四節 元治の變

松平大貳、諱は康正。松平久兵衞の第二子にして宗家松平康職の後を嗣ぎ、祿四千石を食めり。安政三年を以て小松城番となり、五年算用場奉行に轉じ、萬延元年慶寧の側用人に擢でられ、文久三年家老職に進む。元治元年大貳命を受けて京師に駐り、邸の事務を總轄せしが、慶寧の入して長藩の爲に斡旋するに及び、常に公武の間に奔走して慶寧の意志を傳ふるに盡力せり。七月十九日慶寧の退せしとき、大貳は齊泰の内旨を得、八月十一日その客舍とせし海津の正行院に屠腹す。大貳時に年四十二。十三日荼毗に附し、遺骨を野田山なる先塋の次に葬る。慶應元年四月慶寧謹愼を解かるゝや、賻を遺族に與へて追悼の意を表し、翌年四月慶寧の封を襲ぎし時又親翰を贈りてその忠節を賞し、明治二十三年十一月十七日大貳の靈を前田家の廟に合祀す。三十一年七月四日特旨を以て從四位を贈り給ひ、大正十五年四月靖國神社に合祀せらる。大貳の最後に關しては、佐川良助の日記あり。當時の情景髣髴として贈るが如し。

 九日(八月)早朝御出席海津本陣へ)、今日も昨日同樣の取沙汰。夕景御戻り、君御(大貳)眼色少しく常ならず、何か御心痛もあるやに拜察す。十日朝五ツ時より御出席、晝後に至り愈々明日御發(慶寧)駕御治定の由取沙汰いたし、今日にて都合十八日も御逗留にて、地方の物品は皆賣切となれり。君御供の事も不相分、夜六ツ時過御戻りに付、御發駕に候哉と伺ひしに、其儀に付追て可申入、先づ食事終る迄指扣候樣にと被仰。無程喜兵衞・多仲・良助(志賀・石黒・佐川)三人召され、御近習人拂にて、今度中納言齊泰)樣より筑前守(慶寧)樣へ被仰進候趣に付拙者儀決する所あり、明日御見立後切腹致筈に付左樣可心得旨仰せられければ、一同驚駭の念に打たれ、何の御請も致し兼ね涙ながらに、公(慶寧)の御爲御一命被差上候儀無此上御忠節と申上候得ば、明朝事濟の上は土佐守(前田直信)殿へ申出、萬端御指圖を請け可申告御遺言あり。因て喜兵衞・良助御供仕度旨申上候處、心掛神妙なれども其儀は斷じて不相成。末期養子潤之助等若年なれば、萬端重役之者申合せ、能く世話いたし呉れ、且つ長女へは聟養子、次女は兼て内約通り外記(横山隆淑)殿嫡子に嫁し付せ候樣可取計旨御意あり。良助尚ほ心中安からざる所ありければ重ねて申上候には、喜兵衞御供御指留は御尤に奉存候。良助儀は何卒格別を以て御供仕度と悃願候處、申出は殊勝に存ず。併し其方は武藝心掛厚く候間潤之助を能く守立て、時節柄御用立人物に育て呉度との御意を蒙り恐入候。續て多仲・方次郎・守衞(勝岡 同)よりも御供願出候へば、左樣之儀有之候ては取締方不行屆とて返て不爲にも可相成候間、誰にても一切不相成、此旨篤と可心得樣御懇諭ありし。扨喜兵衞等三人へ御手自御茶・御菓子下され候上、何と今度の一條は潔き事にてはなきや。兎に角重役の者へ死後萬端配慮を頼むと御意被成、何れも涙ながらに御請申上候處、尚又供之者一同呼寄せ酒爲呑候樣御意に付、早々御酒肴相整へ、在合の指鯖・鮎鮓にて、先づ君には御酒二三献召上り、御盃を喜兵術へ下され、夫より一同へ廻し何れも戴き候折柄、外記樣より御見舞として御酒五升・鰻七筋御到來、鰻は其儘湖水へ放され候。夜四ツ時過、御舍弟松平勇之助樣御招きに應じて御越被成、御盃度々御交換(カハ)しあり。素より明朝の御一條は少しも御漏しなく、唯明朝は御當番かと再三御問なされしに、御舍弟は何等御承知なき事とて、明日は非番にて候と被答候。良助等側に在りて、涙を押隱しつゝ御相手せしは心苦しき事無限候。大切なる儀なればとて、御同胞にも御漏しなき御健氣の程感に堪へざりし。御舍弟は九ツ時過御庚被成候。是よりは喜兵衞等三人、終夜交々御足を撫で御腰を揉みなどして御伽申し、種々御話被遊、御決心の堅固なること鐵石のごとし。故郷の事共定めし御氣係りとは拜察せしも何等仰られず。唯越前路形勢等に付、只管公の御道中筋御懸念の躰に候。(中略)。良助へ御最期の節白帷子用ひ候歟と御尋に付、御紋服にて可然旨御答申上。尚又御用刀は政常作短刀可然哉と仰に付、慥なる御道具に候と申上候處、然らば取出し置くべしと御意に付、竊に御具足櫃より取出し、懷中して御居間に持參せし時の胸中は格別にてありし。最早鷄鳴時刻、合暫時の御壽命かと思へば、薄氷を踏む心地せられ候。君には御見立前唯今の内に最後を遂ぐべきや、動もすれば心臆し竟に不覺を執る虞れあると被仰候に付、御意御尤には候得共、御見立後に於て徐ろに御果し被遊候はゞ、拔群の御首尾かと愚考可仕旨申上候得ば、其通りにと御決心ありぬ。朝六ツ時頃行水御遣ひ、御膳平常の通二椀召上り、水淺黄御絞付帷子・川越平野袴・納戸色布脊割羽織・御紋付布腰帶御著用にて、御本陣御供揃合圖に正行院下通御道筋(大貳宿舍)へ御出被成、御供には和左衞門・喜内・助曾(杉山・千秋・石黒)、御先徒士二人、御鑓草履取小遣二人被召連候。君御出仕後良助喜兵衞殿に向ひ、御内密には候得共追付の御一條御近習等侍之向へ少しく漏らし、追付御戻の際今生の御名殘に餘所ながら拜顏せしめては如何と氣付けしに、同意を得て竊かに其向へ告候處、一同驚き聲を發て歎き候に付、穩便に可致樣制止し候。無程御見立濟せられ、御歸宿の上更に喜兵衞三人被召出、唯今途中迄遠田誠摩(御用部屋)を以て被仰下候御内意は、御内密に候得共爲申聞候とて、大貳儀當役人精相勤御滿足被思召、且又今度之儀は御生渡御忘不遊旨云々、誠に以て難有仕合に候と御演述相成たり。何れも唯落涙の外なく候。先刻御通行筋へ御見立の處御駕籠の御簾揚り、公には(慶寧)尊顏を簾外へ御出し被遊、白御手拭もて御涙を押へさせられ、君の御姿の見ゆる限り御目送被遊たる御樣子に、御供の人々不審に堪へざりし由。扨奧方樣へ被進とて、御駕籠入箪笥並御遺書喜兵衞へ御渡の上、喜兵衞・多仲は暫く退き良助而已居殘り候樣被仰。兩人退下後、良助へ介錯申付くとの仰に依り、重き御用被仰付、殊に御最期の際迄結構に被召仕候段冥加至極難有旨御請申上候。斯る場合には一層精神を靜め御慰安申上ぐるこそよからめと存じ、御煙草・水など進め參らせ候處快く召上り候。御介錯の御刀御渡可下樣願候處、暫時御考之上御側に有之候御指料御渡相成、且御自用の短刀御取出し、御居間南西の間に向ひ毛氈の上に御著座ありて、苦痛せぬ樣介錯せよと御意に付、畏り候と御請申上、先づ産神春日・摩利支天に祈誓し、不仕損樣只管心願を籠め候。君にも東に向はせられ、何か御祈念ありし體にて禮拜をなし給ふ。良助手拭もて自分の片袖をしぼりし折柄、情念愈々迫りて止み難く、又候殉死願候得ば、先刻來爲申聞候通りにて、此上強て請ひ候は不忠者と御叱り被遊候故、無是非斷念候。此時御羽織を後方へ脱捨て、御肌脱せられ、短刀を取られ、腹は何邊より切るを可とするかと御心強く御尋に付、此邊を被遊可然と申上候處、其儘左の御腹へ深く短刀突立引廻し給ふ途端に、右の方へ少しく倚り掛らんとし給ふ御肩へ手を添へ向へ押し奉り、御動座の直りを伺ひ隙さず討ち奉りしに、尊體は御座の儘前方にうつ伏になり給ふを、進んで篤と伺ひしに、御咽喉の皮少しく切れ殘りて、些少の御苦痛もなく、誠に御立派の御最期にて轉た感慨に堪へず。取敢ず毛氈にて御刀ののりを拭ひて鞘に納め、尊體に拜禮せしが、其際の胸中は何に譬へん方もなく、不圖念佛稱名し喜兵術殿と呼びしに、是に應じて何れも馳せ來りて、唐紙引開け現場を望見て涙に沈み、誰ありてもの言ひ出づる人もなく、夢路を辿る心地しぬ。
〔佐川良助日記〕