石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第四節 元治の變


 今度京都より發足(慶寧)之儀は無據次第に而、當譯迄罷越候處、段々從御國元仰越候儀、何供御尤至極之儀、臣子之道に而無彼是從事は勿論に候。然處物議種々申立候哉にも承り、理非は兎も角、先以中納言齊泰)樣より被仰出候御事彼是異存申立候而者、此方爲と存候事反而不爲至極に相成、詰りは申譯も無之場合に可至と此上之心配何共申盡し難く、殊に病中彌増配慮至極に而、保養之妨とも相成、反而不忠之至と存候。其上土佐守(前田直信)を以被仰下候御趣意も被在候御樣子、萬一如何躰之儀被仰下候共、不是非臣子之大道に而候間、聊異存箇間敷儀申立無之、幾重にも御下知相守、平穩に相心得候儀國家之御爲に候間、何れ茂此方之存意を厚相心得候儀忠義と存候條、心得違無之樣一統相心得可申事。
    八月三日(元治元年)
〔文慶雜録〕
       ○

 筑前守(豐寧)樣御儀京都守衞、御病氣とは乍申、非常之場に臨み御達捨(タツシステ)に而御引取被遊候儀、天朝・幕府え被對被仰譯相立御次第に候條、御愼被在候樣從中納言齊泰)樣土佐守仰遣候。依之御供人一統穩便罷在候樣可申渡候旨、筑前守樣被仰出候條得其意、組・支配之人々にも可申渡候事。
    八   月(元治元年)
〔諸事覺書〕