石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第四節 元治の變

初め不破富太郎等の慶寧に從ひて京師に赴くや、同志の金澤に在る者より情を得んと欲したりき。然るに福岡文平は讒陷を恐れて深く自重し、僅かに一たび富太郎に書を致したるに止り、久徳徳兵衞も亦一再に過ぎざりき。唯小川幸三高木守衞野口斧吉の三人は、病床にありたる廣瀬勘右衞門の家に集會して毎便書信を發し、富太郎等も必ず之に應へて意見交換せり。既にして勘右衞門の病漸く重かりしのみならず、族人の爲に禍福を諭されて相遠ざかるの意ありしを以て、同志は乃ち之と斷てり。同志又富太郎等が何等爲す所なきを見、その因循姑息なるを難詰す。富太郎後書して曰く、此の行世子の重患に遇ひしは實に我が徒の不幸なり。然れども吾輩將に死を賭して事に當らんとするを以て、願はくは時機を待てと。尋いで又信あり曰く、京師中外の形勢大に切迫し、これより後再び書を裁するの隙なからんとす。不日吾輩の爲す所を見てその畫策の跡を知れと。是を以て同志皆鶴首して快報の到るを待ちしが、七月二十二日慶寧の將に退せんとすることを傳へられ、その甚だ意外なるに驚けり。

 一、今曉七半時(七月廿二日)京師より御飛脚著、御用有候間早速可罷出旨被仰出候段、當番御近習衆より申來、早々出席
 一、當十九日曉、長州京師へ押入、所々放火、御固之御人數と及戰爭、不容易形勢。筑前守(慶寧)其以來御所勞之處、爾々不遊、御下知も被遊兼候に付、御暇御願に而御發駕之事に御治定之旨申來。
〔公私日記〕