石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第四節 元治の變

十七日在諸侯參朝して長藩處分を議せしが、慶寧は病んで會せざりき。この日朝議遂に長藩撃攘の命を下しゝかば、長藩は十九日拂曉を以て、君側を清むるを名とし、進みて禁闕を犯し、蛤・中立賣・堺町の三門に發炮し、又自の河原町邸に火を放てり。加賀藩の邸之に隣りしも防ぎてを免る。慶寧即ち奧村榮通に命じ、その部下品川左門武好をして馳せて禁闕を護衞せしめ、又津田玄蕃正邦をして慶寧に代りて聖體の安を奉伺せしめ、己は疾病に堪へずとの屆書を提出して直に歸途に就けり。初め慶寧、山崎庄兵衞を留めて京師を護らしめ、自餘の臣僚を率ゐて國に歸らんと欲せしが、榮通は連りに慶寧を諫めしも可かれざるに及び、自ら庄兵衞に代らんことを請ひて許されき。榮通乃ち慶寧の出發を建仁寺に送り、直に禁闕に赴きて兵を部署し、井口孝左衞門永錫等をして仙洞御所を衞らしめしが、この時諸藩の兵既に長藩を破りて潰走せしめたる後にありき。この夜幕府の大目付永井主水正、榮通の營に來り、蛤門警衞過少なるを告げしを以て、榮通は品川左門・津田主税庸行等をして赴き助けしめき。榮通又恒川新左衞門を遣はし傳奏によりて上奏せしめて曰く、萬一乘輿遷幸することあらば、敢へて請ふ加賀藩の士卒之に扈從し奉らんと。天皇これを嘉し、野宮中納言をして勅を傳へて榮通を勞はしめ給へり。その後榮通は、二十一日に至るまで禁闕にありて守護し奉る。二十四日幕府加賀藩蛤門の宿衞を解き、轉じて清和院門を守らしめ、晦日朝廷は傳奏をして我が將士を賞せしめ給へり。

 一(七月十八日)、此表天龍寺等之長州等未引取不申、公邊一橋樣よりは分而格別御内慮之趣被仰諭も有之候へ共承服無之、及戰爭度旨申立候に付、左之通今日御老中より書付御渡にも相成候。依之筑前守樣には何分御病氣被御重症候に付、御警衞方之御人數者被指置、御屆置に而御歸國遊旨御決心被仰出之。右に付各初御前え罷出、段々相願候趣も有之候得共御聞入無之、今晩中にも御引取被遊度段被仰出。右に付御道中奉行等にも爲心得候事。
 一、長州等之形勢最早暴發、三條之長州屋敷も燒拂、所々放火、今にも可異變躰に付各示談。組頭抔にも、御病氣無是非儀には候得共、只今御引取と申儀候而は御外聞にも拘り、御家之御汚名にも相成可申、何れ御猶豫可遊儀等之儀、御前え罷出強而相願候へ共、何分御決心に候間御聞屆は難遊、此上申上候へば急度思召も被在候旨御意に而、幾重に御諫申上候而も御取用無之故、左候はゞ中納言齊泰)樣え奉對侯而も申譯無御座儀に候間、乍恐爲御名代私儀居殘(奧村榮通)、御警衞向之處は精誠相心得申度旨相願候處、其通相心得可申、依而御供には庄兵衞(川崎)可召連旨被仰出候に付、各退去、御供之儀庄兵衞え申談候事。
 一、夕七時過、筑前守樣建仁寺御本陣御發駕被遊候。其節自分儀、席縁頬通筋に扣罷在候處、段々御懇之御意在之、御請におよび、則庄兵衞・大貳(松平)御供いたし罷歸候事。
〔御用方手留〕