石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第四節 元治の變

京師に在りては、七月一日所司代松平越中守定敬加賀藩の邸吏を召し、長藩の士等嵯峨の天龍寺・嵐山の法輪寺等に據り形勢頗る不穩なるを以て、四條通紙屋川を警戒する青山因幡守忠敏の應援として兵を出すべき命を與へたりき。因りて二日總員千五十五人を東堀川附近に派遣せり。三日慶寧、山崎庄兵衞・松平大貳二人を一橋慶喜及び稻葉正邦に遣はし、長藩の哀訴する所數件の内その一を許さば、則ち彼等をして畿より退かしめんといひしが亦報ぜられず。而して幕府は大小監察を伏見に遣り、朝命を長藩に傳へて説諭する所ありしも、激徒はその眞僞を疑ひ敢へて服從せんとはせざりき。慶寧之を聞き、六日藤懸庫太・大野木源藏を河原町の長藩邸に遣はし、邸吏乃美織江に諭さしめて曰く、貴が尊王の志を抱くこと天下之を知らざるなし。然るに今寛大の朝旨に忤ふときは、從來の忠誠悉く水泡に歸すべし、豈遺憾ならずやと。織江之を謝して、福原越後と議したる後恩命に應へんといへり。七日朝廷稻葉正邦をして命を慶寧に傳へしめて曰く、長藩は元と勤王の志深きものなり。然るに今哀訴に託し大兵を率ゐて所々に屯集するもの、何ぞその素志に違ふの甚だしきや。是を以て幕府に命じ、悉くその兵を還し、福原越後等數人をして伏見謹愼して處分を待たしめんとす。卿亦この意を體し力を盡くして彼等を諭ずべしと。同日又別に命を傳へて、長藩士撤退の期を十一日と定めて周旋せしむ。因りて八日乃美織江を河原町の加賀藩の邸に招き、山崎庄兵衞・大野木源藏等之に會してその意を敷陳せり。十一日長藩の邸吏川端龜之助加賀藩邸に來り、恒川新左衞門に面して曰く、過日來貴の高諭を蒙るもの、感荷何ぞ堪へん。嚮に朝廷幕府及び貴に命じ、我が兵をして悉く退去せしめ給はんとせしを以て、我は又重ねて稻葉侯に哀訴する所ありき。是を以て今その文案を貴に呈し、敢へて周旋を仰がんと欲す。書中記するが如く、我が兵を退くることは竟に從ふ能はずといへども、輦下に侵入して禁闕を動搖せしむる如きは固より爲すを欲せざる所にして、努めて隱忍自重答命を得る所あらんことを期すと。

                               松平筑前守(慶寧
 長州藩士等比日出願有之趣候へ共、多人數兵器等携所々致屯集甚不穩候。元來於長州殊勤王之志情深厚候處、右樣之次第甚齟齬に候間、天龍寺其外え罷出候輩各早々令歸國、福原越後儀小人數に而伏見表に滯在、出願之儀者穩に經其筋申出、重而之御沙汰謹愼に相待候樣、幕府より爲説得候。歎願之筋御許容之有無者暫差置、一體入之儀は兼而被仰出も有之候儀、特に兵器等相携不穩所業甚以如何被思召候。就而者猶此上於も、右之御趣意を以、天龍寺其外に屯集之輩早速引拂歸國致候樣、精々盡力説得可之旨御沙汰候事。
 右之通從御所仰出候間相達候事。
    七   月(元治元年)
〔御用方手留〕
       ○

 當五日伊豫守(奧村)より内状を以申達候通、今度長州暴動之儀に付、猶又此上にも皇國之御爲、兼而被仰出置候御趣意通り、御盡力御周旋遊御決心被仰出之趣に候得共、右に付御所置振未御評決には相成不申候處、其後拙者共初、遠藤誠摩等聞番抔えも重々御僉議之上、只今又々御建白御指出(三日)御座候へ共、所詮御取用之處も無覺束、指當り候處、此間伏見滯留之長州え御大目附衆を以、御寛大之御所置に而勅諭之趣被仰入候御次第柄も有之、若此上にも不承服、不引取樣之處に至り候而は、是迄御周旋成置候御詮も無之儀故、今一遍聞番を以長州御留守居迄精誠被仰諭候方可燃と御評決に相成、則(六日)藤懸庫太・大野木源藏長州御屋敷え罷越御留守居へ逢、今度勅諭之趣も有之上にも不引取而者違勅之筋に相成候間、得と勘考いたし、福原越後等精誠申合可然旨等委曲御趣意之趣申論候處、猶更跡より御受之趣可申上旨等申聞候由。然處一昨晩(七日)御老中稻葉美濃守殿へ聞番御呼立、天龍寺其外に屯集之輩早速引拂歸國いたし候樣、精々御盡力御説得可之旨從御所仰出候旨等、御書付を以被仰渡候に付、右之通精誠被仰入候上之儀には候得共、今一遍表向被仰入候方に而可之哉と遂詮議、相伺候處、伺之通被仰出候に付、昨夜(八日)聞番より以紙面申遣、長州御留守居乃美織江儀御旅舘え罷出候に付、庄兵衞(山崎)儀逢候而右御沙汰之趣等申入候處、御請之趣申聞相濟、大野木源藏より猶又御趣意之趣申入置候旨。右之委曲は聞番より直に及言上候筈に候。右之通に候間、此上は右御留守居御請之模樣次第勿論御手切可御座歟と、何れも決心之族に御座候。以上。
    七月九日(元治元年)                         伊豫守(奧村)等三人
〔御用方手留〕
       ○

 去十一日夜聞番宿所え、河原町長州御屋敷に罷在候御留守居川端龜之助と申者罷越、御所向より引取之儀御沙汰之段被仰渡、右に付歎願之趣稻葉殿へ指上候間、猶此上も可然御周旋下候樣偏に奉願旨申聞。右歎願書寫指出候旨等、別紙書立之通り恒川新左衞門申聞候。先達而以來度々御説得等被遊候上之儀に付、此上先御周旋等被及候には被及間敷と、拙者共初御僉議有之、其儀に御治定被在候。則右御書立等三品指進候條以御序御覽、右之趣可御聽(齊泰候。
    七月十四日(元治元年)                        伊豫(奧村)守等三人