石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第四節 元治の變

書上るや水野忠精は之を齎して急遽江戸に下れり。是の夜會津・桑名の二候補吏を放ちて諸藩浪士の洛中に在るものを捕へしに、その中に山上六郎といふ者あり。先に淺野屋佐平上洛せし時、福岡惣助の書を齎して之を六郎に傳へしに、その書六郎が窃かに金澤に來りて惣助の幽居を訪ひたるを謝し、又某親王を介して惣助の罪を赦し且つ上洛を命ずべく周旋せられんことを請ふとの意を述べたりき。然るに六郎の縳に就きし時之を懷にせしを以て捕吏の發見する所となり、會津侯より使を遣はして慶寧に報ぜしめ、遂に金澤に傳へらるゝに至れり。因りては即日惣助を寺西要人秀周の邸にし、又佐平をも捕へしめんとせり。佐平時に京師の旅舍に在りしが、捕卒の來り迫るを見、從容として國歌五首を詠じ、これを傍人に託して郷里に致さしめ、而して後その命に從へり。藩吏不破富太郎等三士を疑ひ之を召還せんとす。慶寧曰く、余素より三士の罪なきを知る。若し三士が正義の説を唱道したるを罪なりとせば、余も亦正義を唱へたるものなるが故に宜しく先づ國に就かざるべからずと。是を以て三士召還の議止むことを得たり。三士之を聞きて感激し、一死以て慶寧の恩に報ぜんことを誓へりといふ。

 當月十日之御紙面同十四日到來、福岡惣助手前之儀に付肥後守(松平容保)樣より御内々爲御知之趣、筑前守(慶寧)樣え御伺御申越之趣委細致承知候。則御内状等不取敢入御覽(齊泰申候。先以不容易取組之樣に御座候間、豫而御咎被仰付置候者に候へ共、猶又不縮(フシマリ)無之樣可申渡儀と存候。依人持え御預被成可然哉に付、寺西要人え御預被成に而可御座哉。御紙面等には惣助と迄御座候へ共、福岡惣助に相違無之樣に相聞え、且又惣助紙面之内淺野佐平え使申付候樣に相見え、右は御當地町人淺野屋佐平に而可之に付、改方え引揚縮申付置候樣可申渡哉之旨等相伺候處、僉議之通早く可申渡旨被仰出候に付、則一昨十八日惣助儀御樣子次第(有之カ)、寺西要人え御預被成候段申渡。佐平儀は其表え罷越居候由に付、是又樣子有之候條役人差遣改方え引揚候樣同日申渡。尤世評に相成候而者不然に付、いかにも穩便に縮付候樣分而心得方申渡候條、是等之趣御承知旁爲御心得申進候條、以御序筑前守樣御聽にも被達置候樣にと存候。爲其如此御座候。以上。
    六月廿日(元治元年)                         前田土佐守(直信)
      伊豫守(奧村榮通)等四人樣
 追而惣助手前御糺方等之儀は、追而遂僉議伺旨申上置候。就而者不破富太郎大野木仲三郎青木新三郎儀、長藩抔出會有之躰。子細者相知れ不申候得共、山森權太郎内状之趣も有之候間、品により御手障之儀有間敷共難計。近比右同志之人々、惣助の如く追々相募申躰。右樣之譯に而者第一御縮方も相立不申、御政事にも指障申儀に候間、富太郎等外にも御供人等之内右樣之人々有之間敷哉。右樣の人々此表え御返に相成候而も可然哉と申合候へ共、何分子細も相知れ不申事故、尚更夫等之處於其表御探索有之、御縮方相立候樣御取計有之度儀と存候間、猶更御僉議有之、樣子被仰越候樣いたし度御座候。是等之趣相伺申進候。以上。
〔御用方手留〕