石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第四節 元治の變

是より先長藩に在りては、各地勤王黛の失敗せるもの來り集り、薩等の公武一和論を排斥して勢力を挽回せんことを謀りしが、彼等は武力を用ふるに先だち、一たび前罪の赦免を嘆願するを可となし、文久三年十一月家老伊原主計をして奉勅始末等の書を携へて上せしめ、これを加賀以下強大の數に示して長藩が尊攘の外に意なかりし所以を明らかにし、以て同情を喚起せんとせり。然るにその後長藩の運動毫も効を奏することなかりしかば、在の過激黛は憤怒に堪へず、薩の船舶に對して危害を加へんとするものすらあるに至れり。是に於いて幕府長藩を膺懲せざるべからざる必要に迫られ、會津・桑名二の建言に基づき、長藩にして謝罪するに非ずんば斷然征討すべしとなし、元治元年二月十一日薩に對して出兵の準備を爲さしめたりき。慶寧乃ちこれを非なりとして曰く、外交の時局困難に陷りしよりこゝに十餘年、その間幕府の措置常に當を失し、我が國の面目を瀆すこと甚だ大なり。然るに幕府は國權の振張を念とせず、却りて長藩を征して内亂を挑發せんとするもの、失政これより甚だしきはなし。且つ長藩の朝議を得るに至りたるは、眞に叡慮に出でたるに非ざるが故に、之を匡救して力を王事に竭さしむるを以て、朝廷に對する忠貞の擧といふべきなりと。因りて二月二十日親ら書を裁して齊奏に請ひ、侯をして征長中止の議を幕府に上らしめんとせり。齊奏老臣に諮りてこれを容れ、二十三日大野木源藏をして書を齎して西上せしめたりき。源藏命を奉じてに至り、三月二十六日在の家老松平大貳康正と共に幕府閣老水野和泉守忠精に謁して齊泰の書を致せり。その書に曰く、仄かに聞く近者幕府長州を征するの内議ありと。知らず實に然るや否や。某以爲く、長藩の近状は全く朝幕を輕侮するの跡なしといふべからず。然りといへどもその眞意を察するに、單に尊攘に感奮し、闔一致して叡旨を貫徹せんとするに在るのみ。故に去年攘夷の令海内に布かるゝや、直に外舶を炮撃して實行の急先鋒となれり。爾來長藩士氣益熾烈を加へ、動もすれば過激に流れて自ら罪に陷るを知らざる者あり。長藩の入を停められし事の如きも、同じく忠憤敵愾の餘に出でゝ他を顧慮することを忘れ、遂に違勅の疑を受くるに至りしなり。思ふに曩に長藩が朝幕の間に斡旋せし際、毫も功績なかりしとは言ふべからず。されば彼の過失は、その實皇國の爲に盡くさんとする誠意より出でしものにして、亦大に憐むべき點なしとせず。况や又先年朝廷特旨を以て大赦を行ひ、國家の爲に激發して誤りて法憲に觸れたる者の罪を宥し給へり。天下一般の士民に對してすら尚此くの如くんば、勳舊の名門毛利氏の如きは特に處するに寛典を以てし、自ら恐懼して反省する所あらしむべし。幕府の策若しこゝに出づること能はずして遽かに問罪の師を起さば、海内忽ち兵馬の區に變じ、人民の艱苦國家の疲弊勝げて言ふべからざらんとす。之に加ふるに不逞無頼の徒虚に乘じて蜂起するあらば、如何にして天下の混亂を救はんや。且つ去冬幕府は使を諸外國に遣はして、和親交易の中止を提議せしめしといへり。その事の歸結果して如何は未だ知る能はずといへども、彼は必ず我の言ふ所に從はざるべきを以て、勢の極まる所斷然港灣を鎖して國威を立てざるべからざるに至らば、兵端直に開け武人壯夫の多數を要すること素より明らかなり。然るに今その武人壯夫を愛惜せず、兄弟互に牆に鬩がしめば、何の餘力ありてか外敵を禦がんや。某以爲く、幕府今日の急務は專ら鎖港の事に從ふに在り。鎖港にして若し成らば、天下誰か幕府に心服せざるものあるべき。故に曰く、長藩は姑くこれを寛典に處し、干戈を邦内に動かすの禍を避くべきなりと。その後幕府征長の擧を罷むるに至りしは實行の困難なりしに因るといへども、齊泰建議も亦與りて力なかりしとは言ふべからざるなり。