石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第三節 錢屋五兵衞

五兵衞は概ね風流韻事を排斥したりしも、獨俳諧に於いては稍嗜好の深きものありしが如し。彼は俳號を龜巣といひ、所居を橘仙堂又は松帆榭ともいへり。藏月明の龜巣老に據れば、世或は五兵衞に喜多船の別號ありし如く傳ふるものあるは全く誤謬にして、喜多船または北といひたるは本吉の俳人なり。五兵衞の俳句な、主として五十歳以後に於いて見るべく、又好みて染筆を試みしは七十歳以後に在りどいへり。葢し錢屋が富豪の名天下に知らるゝに及び、柳年・梅室・江波・梅通・春湖等の徒皆俳杖をその家に曳き誘導啓發する所ありしに因る。然りといへども彼は固より文字の人にあらざるを以て、措辭法を謬り、推敲洗練を缺くものありしは當然なり。

    湯あがりのまゝに向ふや夕櫻      天保元年
    眼のだるき折ふし花の散りにけり    天保三年
    六十四年今朝若水のかる〲し     天保七年
    四海波靜なりけりうたひぞめ      天保八年
    田作りて此庭せまき御慶かな      弘化元年
    うてはやせ世に名をうれよ浦の春
     風は涼し一軸を拜領し眞清水の月とあれば
    いよ〱清水の家名もとゞろかさんや
    ほとゝぎす折も折から月清水
    正月四日御禮に出て
    雪に杖さして四方見る年賀かな    弘化三年
    初鷄や更に世話なき臺所
    萬代を腹一ぱいの雜煮かな
    風はよそ雨はしと〱杜若
    見歸りてあすとはいはじ夕櫻
    這のぼる巖たのしや苔清水
     七十又加七。依然舊日顏。仰欣高壽色。白立二山間。
    かくまでの御代のめぐみや勝木ばし   嘉永二年
    雨風をなだめてかすむ野一ぱい
    立派さの年を飾や着衣はじめ      嘉永三年
     双井自賀
    初鷄や家々けつかうな八重の年     嘉永五年

五兵衞の文藻によりて確定し得べきものは彼の年齡なり。葢し從來傳へらるゝ所によれば、五兵衞の歿年は八十二歳なりとせられ、の書類中にも亦同じく嘉永五年の年齡を八十二なりとせり。然れども天保七年の試筆に、自ら六十四歳なることを詠じ、嘉永二年己酉の歳旦に七十又加七の五絶を題し、五年には双井自賀の作あるが故に、その歿年は正に八十歳ならざるべからずして、錢屋過去帳の記載も亦之と一致す。然るに五兵衞が公稱上常に實年齡よりも二年を加へたるものは、天明七年父の存命中その家を相續するに當り、享年纔かに十五歳にして町役人の同意を得ること困難なりしを以て、假に十七歳と稱したるに起る。この事文政八年十一月、彼が十七歳にして戸主となり、喜太郎も亦當年十七歳に達したるが故に家を讓るの志あることを町役人に稟請し、その同意を得たる後翌年之を實行したるによりて知るべきなり。

  小紙を以申上候。
 私儀、亡父存命内、家相績之儀十七歳に而讓請、家商賣相續仕來候處、當年忰喜太郎十七歳に相成申候處、亡父申送之趣茂有之候に付、家商賣共忰喜太郎え相續仕、隱居仕度奉存候間、此段御聞屆被下候樣、御願可下候。以上。
    酉 十 一 月(文政八年)                       錢屋五兵衞 印
      肝煎 市郎右衞門殿
 右錢屋五兵衞小紙出申に付上之申候。以上。
                             肝 煎  市郎右衞門 印
      宮腰町御奉行
 本文(附箋)遂披見、可勝手次第事。
    十 一 月
〔高岡市清水知加氏藏〕

錢屋五兵衞筆蹟 石川郡金田庄吉氏藏