石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第三節 錢屋五兵衞

五兵衞は壯年の頃より父の業を受けて航海に從事せり。故に彼を以て赤手空拳より起りて豪富となれりと傳ふるものは、亦頗る事態の眞相を誤れるものなりといへども、而も一小船主より掘起して稀有の大資産を擁するに至りたるは、實に彼の非凡なる手腕によらずんばあらず。されば彼の天稟素行固より常人と異なるものあり。その商事に從ふや專ら規律の整然たるを尚び、航海中自ら踏査せる良港要地には至る處に支店を開き、人材を拔擢して事務を鞅掌せしめ、その營業の方針は初め舊主木屋の例に倣ひしが、漸く經驗を積むに隨ひて獨得の妙趣を發揮し、機敏と放膽との一面には、細心綿密なる注意を以て事を處したりき。その晩年に於いて遭遇したる常豐丸沈沒事件の如きは、商事に對する彼の指揮振りが如何なるものなりしかを知るが爲に、實に好個の資料なりといふべし。常豐丸は千七百石を積載するの御手船にして、その運用を五兵衞に委託せられたるものなり。是を以て、弘化五年(嘉永元)二月廿五日船頭孫六といふ者、越中吉久の倉庫より大坂に遭運すべき米千五百石と糧米九石とを積載し、伏木を發して同日能登の小木港に入り、晦日小木を發し半島の突端を通過せんとせしに、偶怒濤の飜弄する所となり、三月朔日祿剛岬の淺瀬に乘上げて破壞せしかば、船員は上陸して村吏の助力を請ひ、九日までにその千三百四十六石五斗を引揚げたりき。五兵衞報を得て自ら善後の處置を爲さんと欲し、十日狼煙浦に至りて濡米賣却等の事に從ひ、十七日宇出津港に着して他の御手船常盤丸の出帆を督し、當夜四時狼煙に留め置きたる支配人善吉に書状を以て指揮命令する所ありしが、この時五兵衞の齡七十六なりしに拘らず、用意の周到、筆力の雄健、實に驚くべきものあるを示せり。

 貴札致披見候。愈御無事に珍重存候。扨此方儀も今八つ頃に宇出津無事着、直樣御手船常磐丸見分致候。隨分宜敷船出にて大慶仕候。然者積廻し米、四ヶ所へ七百八拾六俵、夫々雇を以積出し候由致承知いたし(マヽ)候。しかし日よりあしく、三崎え相廻り日和待可致と存候。隨分日より見立、能日和にはやく相廻り可申樣に、尤御用米之事に候へ者、隨分大事にいたし候樣、夫々嚴敷可申渡候。且又殘り濡御米貳百三十六俵分狼煙村へ買取候由、夫にて都合皆御拂に相成可申候段、先々宜敷事に御座候。猶更忠左衞門(狼煙浦裁許宗玄村人)樣え別紙上ゲ不申候間、宜敷申上可成候。
 一、濡御米等惣高之内壹俵不足之由、依而御達方其心得致候との事。しかし是は壹俵の事に候へども、取揚方取調候役人中見分上拂方及壹俵不足由。左樣候てはわづか壹俵之事ながら、御縮方指障可申事被存候。此儀は貴丈より此方へ不申來事に可成候。猶更忠左衞門樣方に、必思召も可御座筈に奉存候。左樣御承知可成候。
 一、日より次第道具并糟等も、乙が崎相廻し度候に付、道すがら見諸候所、小泉浦とかに小船達七八艘も澗入いたし、御塩積と申事。未御塩も出來不レ申候、必滯之樣子。若又右いかだ引等相頼指支なく候趣に候はハヽ(マヽ)、相雇申候ては如何。左候へば運賃もちと下直にても相成事かと愚察致候儘、今日途中ながら早々に紙面相調へ、松波儀左衞門殿方へ出申候わけは、いかだ組方、又雇等之主付に致候ても、可然人柄と見込申し頼遣置申候。若同人承知に候はゞ、右之趣に御申談可成候。猶更此儀も、忠左衞門樣御示談可成候。御回人樣えも可然と被仰候はゞ、同人に御申談可成候。勿論いかだ抔、御手船御用之事に候へば、品により板之立札にても相調、いかだに立て被遺事も宜敷哉、御者可成候。扨最早濱仕舞可相成筈、其上は廻し方等も早束可(マヽ)成候。勿論濱仕舞被成候はゞ、十村樣も御引取奉存候。萬事御示談可然候。
 一、ちり濱・川尻之諸拂米□□□□手船、宮腰請取と御申越、是は一向不相當候。是悲手(マヽ)付は忠左衞門樣方御請取可遊候筈に御座候。宮腰へ請取にては手付にても無之候。夫は跡請取申ものに候。其内ちり濱加右衞門とか申者、一割手付不置候出帆いたし候由、跡承り不都合の極事に御座候。尤指紙持參之面々に候へば、いづれ今度御出役宗玄樣へ上納可致筈之所、此方案内もなくかつぬけ出帆、沙汰之限り候。加右衞門儀は、早束ちり濱茂助方可申遣候。其外は皆其地おゐて手付不請取ては當り不申候。御心得違と被存候。右申進度如此に御座候。今晩餘りつかれ大亂筆、尤よみ返しも不致候間御考可成候。以上。
    三月十七日(弘化五年)夜四時              御手船裁許  五  兵  衞
      支配人善吉殿
〔石川郡美川町明元氏文書〕