第五章 加賀藩治終末期
第三節 錢屋五兵衞
五兵衞が第二回の訊問を受けたる後、郡奉行等は未だ豫審を終結せるにあらざりしといへども、此の如き重大犯人を久しくその管理の下に置くべからずとなし、五兵衞及び要藏は金澤町會所の獄より、孫兵衞は川下牢屋より、九月晦日藩の高等裁判所にして監獄を兼ねたる公事場に假收容せり。次いで十月二日喜太郎の手代市兵衞も亦川下牢屋に投ぜられ、尚口書の整理せらるゝに至るまで郡奉行等の豫審を繼續したりき。然るに五兵衞は頽齡にして囹圄の辛酸に堪ふる能はず、未だ正式の裁判を受くるに至らずして十一月二十二日昧爽遂に鬼籍に上れり。但し錢屋過去帳にその忌辰を二十一日とせるは、同日の夜間として傳へられたるが故なるべし。五兵衞の病状に關しては、公事場奉行本多求馬佐が十月二十三日附の屆書に、『宮腰町錢屋五兵衞儀、公事場借牢被二人置一候處、先達而より相煩候に付療養方爲レ致置候處、小便閉いたし候に付藥用致候得共、藥功無レ之時は道具を以て療養不レ致候而は通申問敷之旨、三ヶ所御用醫者高澤元簡申聞候。藥功を見合罷在候而者おくれ候に付、先づ道具を以爲レ致二療養一候。』といへるによりてその詳を知るべく、尿道狹窄に基づきて尿毒症を發せしが如し。三ヶ所の御用醫者とは、公事場・町會所・川下牢屋兼勤の獄醫をいふ。
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