第五章 加賀藩治終末期
第三節 錢屋五兵衞
是に於いて藩吏は密偵を放ち調査せしめしに、錢屋五兵衞及び要藏二人が石炭と毒油とを投じたる結果なりとする説盛に行はれしかば、試みに開拓工區附近の湖底を探りしに石炭數十俵を得、この俵を水中に浸す時は油氣を生じ、又魚をその中に放てば忽ち死したりき。因りて藩吏は世人の流傳する所を必ず事實なるべしとなし、湖畔にありし番人を郡奉行所に引致して嚴に鞫問し、次いで九月三日疑獄の張本と目せらるゝ要藏を捕へ、十一日には五兵衞・喜太郎・佐八郎を連行して金澤町會所附屬の牢獄に投ぜり。而して喜太郎は、自ら逮捕せらるゝに先だち、或は有罪の判決を得て再び歸る能はざらんことを虞れ、遺言状を認めて家人に與へたりき。
此度斯御咎被二仰付一候儀者、潟端之者申立之所作に、讒言之執持相添候譯と存候へ者、毛頭無失(實)之私共明白急度相立可レ申候へ共、世柄惡敷、此上御疑治定と申儀も御座候由。萬一御引上に相成、歸宅不レ被レ致場合にも至り候はゞ、跡相續は悉皆余計松(ヨケマツ)え御授け可レ被レ下、ちか儀は鍋伊之二男小倉屋長次郎殿・明翫次作殿之内御貰爲二御嫁一、余計松年若候て無數之姊弟に候へば、内室同人後見に御立可レ被レ下候。商賣方等支配之儀は、喜助始左之手代中引請、御忠心御出精御守立可レ被レ下。佐八郎儀は此方養子後悔之趣篤と致二承知一居候間、致二離縁一、呉服方等同人支配之出入自分廻に致居候分、不レ殘御調理立御引揚之上、世帶分け銀貳拾貫目外に拾貫目家財代として指遣、別宅爲レ致可レ被レ下。右者別段私遺書も無レ之候間、前條之通無二間違一御執唀可レ被レ下。御組合等へ者、是迄遺言状も指出不レ申候間、各樣御引請御辨達可レ被レ下候。爲レ其遺書如レ斯御座候。以上。 嘉永五年子九月 喜 太 郎 在判 御一類中樣 余計松殿 ちかどの 喜 助 殿 茂 八 殿 長 松 殿 善 吉 殿 三左衞門殿 他 平 殿 船 頭 中 〔錢屋喜太郎遺言状〕 錢五藥[價一類中 一文]功能書
抑此藥、先は邪智國之老人の秘方にして、我家へ傳所也。其功能用やう有増に書記すなり。先づ石灰を以て油を練りまぜ、水中にかきまぜる時は、何程廣き湖或は潟といふ共、藥力速に行屆き、魚類を殺し、鳥類を落し、湖邊の獵師又はいたゞき(賣魚婦)の咽を塞ぎ、大湖と云とも上下數十里の間獵業を止る事妙也。用て樣子を見るに、勢(精)氣心下に集り、胸をふさぎ息をやめ、腹をくるしめ手足をもがき、命を亡す事掌を返が如し。我此藥を試るに則言も更なり、縁者一類家來末々まで手足不自由となり、尻の穴もぬく(マヽ)まれたる底となり、藏につみたる金銀財寳一時に滅亡する事、眼前立處の功能也。其外功能數多有といへども、記にいとまあらず。只國中萬民の噺を聞て記し置也。 禁 物 鰻・鮒・索麪鮴・川鱚・蜆貝・大野醤油・雁・鴨、此外一切潟魚・堀川邊大根・同野菜・海老等なり。 加州宮のこし 本家調合所 錢屋五兵衞 同 喜太郎 弘 所 同 佐八郎 同 要 藏 卸小賣在々所々に數多御座候。目印に者大戸しめる所也。 〔錢屋五兵衞一件〕 |