石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第三節 錢屋五兵衞

五兵衞が主家の金を私せりとの説は、又別に異なれる内容を以て傳へらる。曰く、五兵衞の人と爲り豪放にして志望遠大なり。故に小事に齷齪して銖錙の利を爭ひ、以て生涯を終ることを屑とせず。常に一攫千金の奇利を博して家を興すの基と爲さんと欲せしかば、私かに主家の財一千兩を以て投機賣買を試みしに、一敗地に塗れて之を辨償すること能はず、遂に僚友の告發する所となりて獄に繋がるゝに至れり。五兵衞乃ち一策を按じて罪を免れんと欲し、吏に告げて曰く、余の投機事業に從ひしはもと主家の命を受けたるが爲にして、敢へて自己の獨斷に出でしにあらず。然りといへども商機は密にして敏なるを尚ぶを以て、これに著手するに當り故らに儕輩に告ぐることなかりしなり。されば若し余をして一たび主人に會せしめば、その事情自ら釋然たるべしと。獄吏因りて五兵衞の言を容れ、藤右衞門を法廷に招きて對決せしめき。藤右衞門事の意外なるに驚き、直に答ふる所以を知らず。乃ち一たび退きて熟考する所あらんを請ひ、特に辭して還らんとせしに、五兵衞は忽ち藤右衞門に目語し、以て哀を請ふの状を爲せり。藤右衞門、五兵衞の意のある所を察し以爲く、彼の才智倫に絶するものあり。今一旦の過失を以て刑辟に觸れしめ、爲に生涯を謬らしむるに忍びず。若かず暫く彼の言に從ひ、その罪を免るゝを得しめんにはと。因りて再び法廷に至り證言して曰く、五兵衞の言ひし所眞なり。初め余商機の外間に漏洩せんことを恐れ、密かに彼に囑して之を爲さしめき。而して先に余の告白せざりしものは、法廷の嚴肅に畏怖したるが爲のみと。是に於いて五兵衞は宥されて家に歸ることを得たり。藤右衞門乃ち五兵衞を戒めて曰く、汝須く前週に懲り、愼みて後圖を爲せ。余が汝の爲に失ひし所は吝むに足らざるも、家憲は之を紊すべからず。今より後再び余の家に來ること勿れと。五兵衞大に感奮し、是より益家を興すに力を盡くしたりと。この事舊來普く喧傳せられて、五兵衞が奇智を稱するの好資料となれり。然れども嘉永の頃治獄の事に與りたる石黒堅三郎・淺野周左衞門等の諸吏は、未だ曾て之を聞きしことあらずといへり。恐らくは後人の捏造なるべし。