石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第二節 黒羽織黨及び海防

文政八年二月幕府は外國船打拂令を發し、諸國の航海業者に對して、努めて異國船に遭遇せざるべき航路を擇ばしめ、又異國人と親和することなかるべきを嚴戒せしに、加賀藩は命を奉じて牓示を沿海の要港に建設せり。次いで天保十四年、幕府諸侯に命じて海岸の防備を嚴にし、西洋兵式の練習を奬勵したりしを以て、八月二十九日加賀藩は津田修理正直を能登に派して警備の法を講ぜしめ、嘉永元年八月八日には齊泰自ら打木濱に趣き、初めて大炮の發射を檢閲せり。當時英米の船舶往々我が近海に來るものありしが、能登の沖合に亦船影を認めたりと傳ふるものあり。素よりその虚實は明らかならざりしといへども、齊泰は豫め緩急に備ふるが爲、二年二月廿四日令を發して、若し外船の着陸するあらば直に銃手二組を出して警戒の任に當らしめ、然る後必要に應じて兵員を増すべしと告げ、五年七月朔日には各組頭を召し、近時幕府の命により繰練を開始し、武備の整頓を見たるは大に慶すべしといへども、個人の武技としては刀槍も亦捨つべからざるを以て之が修練を怠らざらんことを要し、武器は則ち華美を避けて重きを實用に置くべしと親諭せり。

 近來異國船所々漂流之沙汰有之内、已に能州沖合え茂相見え候儀も有之候間、自然此後注進之樣子次第、豫而海邊手當申渡置候馬廻頭に相添候先手物頭之内、弓組相殘、筒二組迄先づ手輕く、常旅行之粧に而急速出役爲致候儀も可之候間、此段先手物頭え内意可申渡候。猶出立方簡易之心得等者、成瀬主税等より申談候儀も可之候條、此儀も可申聞置候。勿論馬廻頭並相殘弓頭・横目・使番え茂是等之趣被申渡、其節之模樣次第指續出立之心得彌油斷有之間敷事に候條、夫々可申渡候。最右筒組出投之上は、次鮎之者心得可申渡候。以上。
   二月廿四日(嘉永二年)
〔御親翰帳〕
       ○

 諸士風俗之儀前々より申出候得共、兎角相弛候體に相聞候に付、猶又申出候趣年寄共より申渡候通りに候條、組中申諭、何分貫通いたし候樣無油斷相心得可申候。且又諸士子弟等は不申、有祿之者茂公用之外者、無他事文武之藝に遊候得者、自ら風俗質朴に立直り候一助にも可之處、武藝之儀は近來學校を初諸師範人宅之稽古出座茂薄、別而有祿之者は甚稀之樣に候。先武藝今一篇引立候樣、何茂勢子可之。就中近年從公邊仰渡に因み、先代より無之繰練も相始、追々武備可相整と大慶之至。就而は一己之上に而者、刀槍等之術に熟候儀肝要に候。就中大小將組之儀は、外邊勤向も有之事に候へば容易之心懸に而は相成間敷、近來新役之者は、試業用捨之儀も申聞にまかせ置候儀に候得共、頭手前においても猶更致出情候樣可指引候。將又武器之儀は、人々嗜之儀に候へば制度無之候へ共、大小將備押之節抔中に者甚見事なる出立も有之候。是等は心懸之儀に而可之候得共、華美に流候而は却而實用可薄候哉。第一は其身之業を磨き、且は武器質素に甲斐々々敷、實用を專にいたし費用を省き相嗜候儀肝要に候條、何れも得(トク)と申談、組中え箇樣之處厚く教解可之。右等之趣、一旦之申出に不相成樣、無怠慢申論候儀是亦肝要に候。此段諸頭えも寄々可演説候事。
    七 月 朔 日(嘉永五年)
〔官事拙筆〕