石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第二節 黒羽織黨及び海防

黒羽織黨復活の結果として、上田作之丞が旅行の禁を解かれたることは勿論にして、彼は領内諸方に客遊したりしが、幾くもなく元治元年四月十一日享年七十七にして歿したりき。作之丞が身を市井の間に置きて、持論廟堂の上に行はれ、門下の雋秀にして頭役以上に登りしもの五十餘名を算したるは、その功頗る偉なりといふべし。著す所、南面論一卷・儼語秘策二卷・老之道種初篇十卷・同再篇一卷・同三篇十卷・論語類篇八卷・濟急問答六卷・陽炎草一卷・老子掲要一卷・老子俚解二卷・聖學俚譚四卷・據遊舘學則一卷・鷄肋集十卷・更始大要・笥秘録・龍郊雜著・蛙鳴草・南柯談・一家論合集・據遊舘上疏・龍郊上書・寒郷獨學艸・闇路の松明・花月談・幻齋遺訓等あり。作之丞の閲歴に關しては、安政五年に著せる幻齋遺訓中に自叙して子孫に與へたるものあるを見る。

 愚父儀(上田作之丞)、前條之通十九歳浪人となり、母を養育致罷在、夫より素讀生を集め、廿歳之時新坂高に、書算未熟ながら相始、同年則學校(明倫堂生徒に成。是は榊原故武兵衞左介人と成願なり。堂中に於て心懸も宜、辨解相分候趣に而、貳枚壹度、金壹兩壹度拜領。其時に御主附年寄衆・寺社御奉行學校頭回勤す。三十歳之時小松習學所教授被頼罷越候處、無程故安房守本多政和)樣被召抱、文化十年九月仕進す。其後常々月二度宛小松えも教授に被頼罷越内、御雇被仰付候得共、暇日安房守樣方は相勤居候内、金龍院(齊廣)樣御逝去、其後御免にて不行、於越後屋敷(城内)三枚拜領被仰付。三十九歳之冬、前件之通に而暇乞。其時病氣之儀、何外心も無之間、本復之上は又々可申上品能御暇被下、町支配に奉願度懇々と申候處、其通聞屆に而直樣町支配と被申遣、同年暮に暇給はる。夫より浪人に相成、稽古致し居。是迄家十一度轉宅、最後暇もらひ候年より只今の宅也。其後志有之、種々心附之趣ども申上。嘉永六年癸丑三月江戸御發駕前御呼立に而、追々志之趣申上候儀、御國恩を存付候段奇特に被思召候由に而、白二枚拜領也。明年甲寅七月御樣子有之、遠所不罷越御家中へ不立入樣御申渡、依而教授方御指留、年中拾枚宛被下候事。
 元來學校學事方、聖道に相違之樣心附候へ共、一圓左樣之事不申出、私宅に於ては朱子專門に心得、只々日々事業之儀より窮理之學を唱候處、異端相唱候樣いかにも申ふらし、堂中に於ても愚父方え罷越候事は出來不仕樣と迄申談有之、又色々言上之躰も有之由に付、申酉荒飢之年(天保七、八年)段々心附之事共數册相認指上、自分儀學事も相止候趣其中へ書加へ、江戸へ罷越、戌之七月(天保九年)より亥之四月(天保十年)罷歸り、其時東海道より紀州・大坂之筋見物致し、昨々年以來荒年之樣子考來るに、吾算術之師本田之(本多利明)申分之通りに而感心に及。江戸表に而朱子之窮理學を守り日々稽古方之樣子有之人々相尋候へ共、一切無之。只朱子之書を讀候人計に而、日用之行事研窮之人無之と申事に而、實に歎息に及也。
 其後金澤に而讀書一切不致、遠所へ時々罷越、三州之樣子も見、所々にて少し宛稽古も致し、高岡にて茅屋をしつらひ郷學校、石動にも小學を營、同所に候處、是亦前件之通向後參るまじき由也。
 其間世間何か夷舶事起り可申躰に付、嘉永戌年(三)より九州筋迄罷越、事之樣を窺申候。是も内分所存之程申上置し事也。尤罷歸り子細又々言上す。其三年目丑之年(嘉永六年)より亞墨利加大に騷立し也。付而も色々之事申上候事大略前後十餘度、紙數も五十枚より下りたる事なく、實に前代無之事に候へ共、愚父毎々申上候、一身之儀粉骨に御申付なりとも少しも不苦、右之條々御用候はゞ、御領國中萬民之爲と存候而申上候段、尤其時覺悟罷在候儀也。
 先天保荒年にも我門人窮理之學を心得候印あらはれ、先富田堅吉、程子眞蹟之二幅對我口入を以、木藤(木屋藤右衞門)え五十金に賣拂、其外唐畫一幅・唐研一面に而十八金に賣拂、一錢も不殘御救に出し一方之益を爲し、其外人々器物等を拂、いか計之御國益を助候儀を、却而非議する人多く、何分にも未熟なる事口にも耻る處なり。是等は愚父之致し候處とて、夫より甚しく誹謗をうけしなり。
 是迄學校中に於ても色々御教授も有之所、左のみ人物も出ず。不肖ながら我門より出で、御頭分に成候人五十人計。大抵はそこ〱御用立人に成候儀、不肖之天幸之所大きに身の害となり、且其人々も追々黜罰せられ、今にてな最早無之。然れども其中今に存命之人餘程有之候も、先當世之世柄に似せ、和光同塵ならでは迚も世に容られず、故に學事之沙汰には不及、只世渡り之事に成也。
〔幻齋遺訓〕