石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第二節 黒羽織黨及び海防

かくて黒羽織黨に對する世論頗る囂々たるものありしかば、齊泰は遂に彼等を以て藩治を紊亂するものなりとなし、安政元年六月十七日長連弘年寄職を罷め、翌十八日には水原保延關澤房清近藤信行の職を褫へり。因りて二十二日老臣に諭して曰く、國民を撫育するは政事の要訣なり。故に事を行ふには仁義を以て本となし、事を議するには公平を以て歸となさゞるべからず。然るに近者長連弘その見る所に僻し、一派の有司を偏信して毎事必ずその人とのみ謀り、胥吏皆己の徒を登庸せり。これを以て連弘の政を執りし時、將に任命の事あらんとすれば必ず先づ流言ありて、某は何の職となり、某は何の任に就くべしと傳へられ、而してその發表せらるゝに及びて果して流言の如くなりしは、即ち吏の黜陟・政の施設悉く自黨の手に出でしを以てなり。故に今已むを得ずして連弘及び保延等の職を褫へり。然れども彼等が局に當りしとき既に改革せる法規にして、舊弊を芟除弛緩を緊張せるものなきにあらず。これ等は素より踏襲して變改せざらんことを要す。且つ人心の和を失ふは政事の要を得たるものにあらずとは、屢故奧村榮實の言ひし所なり。卿等宜しくこの遺訓を守り、事大小となく所見を余に披攊せよと。齊泰黒羽織黨を壓迫したりしは、朋黨比周の弊を矯めんとしたるものにして、實に已むを得ざるに出でしなるべし。この時上田作之丞越中高岡に郷校を設け、又今石動に小學を開きて糊口を繋ぎたりしが、是に至りては彼が他郷に出で及び門下に教授することを禁じ、毎年十枚を與へて衣食の資に當てしめき。

 國民撫育者政事之大要にて、何事茂仁義を本として公平に議論有之、好んで惡きを知り、惡んで好きを知ると申事は、申迄も無之各會得有之儀には候へども、大隅守(長連弘)儀近頃氣癖相見え、諸役人之内にも偏信之者有之體にて、諸事令談合、撰方茂彼等吹擧之者を專ら取用候之樣に相成、今度は何役者何某可申付抔一二月前より下々におゐて申觸し、何とやら政事茂一黨より黜陟も有之體に相聞え、隱密事ども洩易く、諸役人茂追々右樣之風儀に押移、彌増長致候而は政事向手障りに相成候故、不止事免除申付、水原清五郎等指除候事に候。近來諸役所舊弊相除、取締向行屆候儀も有之、右等は手崩無之樣有之度。併人和を失ひ候ては不相成趣、故丹後守抔(奧村榮實)も常々申聞候事にて實に大切之儀、別而不穩時節柄彌厚被相心得、猶又政事向大小によらず存寄之趣被申聞候樣致度候事。
〔御親翰帳〕