石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第二節 黒羽織黨及び海防

作之丞は諱を貞幹、字を叔稼といひ、龍郊・龍野又は幻齋と號し、その居る所を據遊舘といへり。上田清右衞門貞固の次子にして、天明八年を以て生まる。清右衞門は老臣本多氏に仕へて徒士頭を職とし、祿二百五十石を食めり。寛政九年清右衞門歿し、作之丞の兄八百記家を襲ぎしが、事によりて僚友と爭ひ、八百記の主張する所正當なりしに拘らず主の爲に譴責せられしかば、八百記は之を憤り仕を辭して國を去れり。時に文化二年にして作之丞十九歳なりしが、これより獨力を以て母を養はんと欲し、讀書算數を教授して糊口の資となせり。六年江戸本多利明金澤に來りし時、作之丞之に就きて學びしが、利明はその才を愛し、養ひて己の贅壻たらしめんと欲せしも從はざりき。この年以後作之丞は藩校明倫堂生徒となり拮据勵精せしかば、成績常に優秀にして屢賞賜せられしことあり。而も作之丞は藩校の學風が徒らに訓詁に沒頭して實用に益する所なく、亦之によりて仕途を得るの望なかりしを以て文化十四年を以て退き、獨立獨行時務を論じ時弊を穿ちしに、その説往々にして人の意表に出づるものあり。是に於いて名聲漸く著れ、聘せられて小松習學所の教授となり、傍ら本多政和に仕へてその儒臣となりしが、文政七年習學所教授を免ぜられ、九年又本多氏を辭して市儒となり、帷を下して藩士に教授せり。作之丞の學は、當時の通弊たる訓詁の穿鑿を迂遠なりとし、實用を尚び經濟を宗とするに在り。嘗て據遊舘學則を立てゝ曰く、學問の要は理を知るにあるのみ。一たび理を知らば書に待つ所なし。書は畢竟古人の糟粕たるに過ぎず。况や數百千年の前に生まれ、數百千里の遠きに住し、時勢と境遇と一として今に同じからざるものゝ言をやと。又曰く、學問の道は極めて簡易なり。之を日常行爲の間に徴し、之を時務の當否に考へ、切磋琢磨して心眼を開くに勉めば、期年にして能く有爲の材たるを得んと。是を以て作之丞の諸生を教ふるや、概ね書册を斥け、時事を主題として辯難討論するを法とし、且つ教授の餘暇屢意見を録しての當局に上り、又は之を知人に頒布して批評を求めたりき。而して作之丞の所論常に明快にして時弊に中りしかば、耳を傾くるもの漸く多きを加ふるに至れり。

上田作之丞筆蹟 金澤河内山唯次郎氏藏