石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第一節 奧村榮實の献替

天保十年は齊泰參覲の年に當りしが、幕府は特にその期を緩くすること數ヶ月なるを許せり。蓋し前年の献資に報ゆるの意を示し、且領内凶荒の善後に處せしめんとしたるなるべし。齊泰乃ち國に有りて徐に治務に從はんと欲し、正月二十日を以て教を老臣に下せり。曰く、今年將軍特に參覲の時を延ぶることを允し給へり。故に余頃者稍閑を得て心を政事に專らにし、先侯齊廣が偉績を追考して、その士風を正しくし庶民を安んぜんとし給ひし深意を知り得たり。蓋し先侯が有爲の志を抱きて特に教諭局を開き、能吏を會して政事の本末得失を討論熟議せしめ、而して將に之を實際に施さんとするに當り突如疾に罹りて竟に起たざりしは、實に國の不幸にして余の甚だ遺憾とする所なり。是を以て余亦先侯の遺志を紹述せんと欲し、勵精事に從へりといへども施治未だその宜しきを得る能はず。これに加ふるに連歳凶荒相繼ぎ、公私多事にして支出百端、下民を賑恤すること意の如くならず。况や前年以來米價甚だしく騰貴したるを以て余は之を救濟せんと欲し、且つその施設の先後によりて得失亦鮮からざるべきを思ひ、曩に臣僚をして意見を言はしめしに、果して裨益する所多かりき。庶幾くは自今余の意を體し、利害得失大となく小となく言を盡くして忌諱する勿れ。余聞く、政事の要は人を得るを以て第一とすと。然るに余の不明なる、必ずしも其の人を得たるを保せず。假令その人を得たるも、因習積弊の扞格するありて能く力を展べしめ得ざることなきにあらざるべし。若し此の如きことあらば、之を直言するを忠信の臣なりとすべし。但し余がかく言へるもの、現任諸職その任にあらざるを以てその地位を去れといふにはあらず。况や自ら事務の繁劇を避けて閑靜に逃れんとする者あらば、余の決して寛假せざる所なり。卿等この意を以て偏く配下に告げよと。この月、文政四年農用を郡奉行の直轄としたるを改め、御扶持人十村平十村等の農吏を任じて彼等を率ゐしめき。蓋し舊制を復したるものにして、時人之を復元御潤色といへり。この年稻田の發育極めて良好なりしが、八月に至りて俄然浮塵子の發生を見、加賀藩に在りては能美郡の被害最も甚しく、大聖寺藩に於いても亦貢租を納るゝ能はざるもの多かりき。かくて藩の財政は窮乏に重ぬるに窮乏を以てしたりしが、翌十一年に至りて初めて稼穡常態に復したるを以て、六月は、八年以降士人より借知せる比率を減じ、改めて天保元年の規定に據る借知を行へり。

 天保十年八月、當年甚上作之處、餘り暖風之天氣打續、雲霞(ウンカ)虫夥敷立、稻多損。又こんか(粉糠)虫とも云。
 當秋酒造方、先記こんか虫にて御指留之處、九月十二日三の一造り被仰渡
 十月十二日大藏少輔(大聖寺侯利平)樣、當年のこんか虫にて御領分不納に付、御暇御願御國え御戻り、今晩金澤御泊。
〔文化より弘化まで日記〕