第五章 加賀藩治終末期
第一節 奧村榮實の献替
藩の財政が此くの如き苦境に在りし際、同年三月江戸城西ノ丸祝融の災に罹り、幕府が造營の費を諸侯に課したりしために、加賀藩も亦十五萬三千七百五十兩を献納せざるべからざるに至りしことは、更に當局の痛苦を加へたるものにして、藩士に對する借知の比率を輕減すること能はざるは言ふまでもなく、引續き今・明兩年間その半知を借り上ぐるの令を布きしかば、生計支ふること能はずして殆ど絶望の聲を放つものありき。更に農民に至りては、比年の凶作なるに拘らず、特に藩の宥免を得ざる限りは依然として規定の貢租を納入せざるべからざりしが故に、その困窮殆ど見るに堪へざるものあり。當時藩の制、毎年中秋彼岸の候に於いて農村の肝煎・組合頭・長(オトナ)百姓を十村役の家に會せしめ、收穫の期に至らば必ず租米上納の義務を全くすべしとの請書を徴して藩に提出するを例とせり。然るにこの年石川郡下安江・西念新保・南新保等諸村は上納の望なしとて請書提出の猶豫を請ひ、定免の法によらずして實地の慘状を巡檢せんことを懇願するものありしかば、改作奉行名越彦右衞門は八月廿六日突然胥吏を從へて前記三村を巡行し、被害の程度甚だ大ならずとして村民の歎願を却け、迎接の任に當りたる十五人を割出村の肝煎儀右衞門の家に引致して桎梏を加へ、又他の十八ヶ村の肝煎を召集して貢租を皆納すべき請書を提出せしめき。超えて二十七日先に捕縳したる者十五人を御算用場の所管にして犀川川下に在る藤内仁藏の牢獄に投ぜしに、彼等の中慘苦に堪へずして死する者五人を生ぜり。而して生存者は十一月晦日出獄を許されたるも、翌十年二月下旬再び郡奉行の命によりて家財を沒收せられ、その持高千二十七石餘は之を藩の締高(シマリダカ)とし、石川郡白川村の十村役太兵衞以下五人に各二百石餘を別ちて管理せしめ、又譴を得たる下安江村の四戸三十口、西念新保村の五戸三十八口、南新保村の六戸四十五口は、越中礪波郡の三ヶ村に分かち移されたり。後九年を經て彼等は初めて舊里に還るを許され、更に十五年を經て藩はその締高を前の所有者に還附せり。凶歉の慘害その及ぶ所大なりといふべく、藩侯施政の趣旨徹底せざりしこと亦甚だしといふべし。
天保九年三月十日江戸御城西ノ丸御燒失。右御手傳有レ之に付、御家中半知今・來年御借上。 五月廿九日より土用入之處、不順至極にて寒く、綿衣著用手あぶり入用之位。翌氷室(六月朔)同斷。 六月土用入より餘り不氣候に付、諸寺社に而御祈禱。 文政二年犀川の上に而定芝居被二仰付一候處、此度不二相成一事に被二仰渡一。 十月覺源寺(乘龍寺カ)前芝居小屋跡・田井新町・淺野町中島三ヶ所に、困窮人御救小屋被二仰付一。町同心兩人右專務御用、裁許主附定番御歩坪田作兵衞、御算用者園部次郎被二仰付一。 〔文化より弘化まで日記〕 |