石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第一節 奧村榮實の献替

この年十一月の算用場は、米穀の缺乏を補填するの一法として、米粃及び米稈を食するの法を記して普く之を領内諸郡に布告せり。蓋し小松集義堂の教授湯淺寛が献言せるを採用したるなり。甘藷に就きては、文化六年江戸本多利明金澤に來れるとき、宮腰・大野・黒津・木津・高松等の砂濱に之を植うれば好果を得べしと説きたりと政鄰記に載せたれば、尚その頃はこの地方一般に之を栽培することなかりしが如く思はる。然るに天保中に及びて能登甘藷ありしは、同七年越中新川郡無組御扶持人十村並寳田奈兵衞敬がその地を旅行して著せる能州日暦によりて見るべく、而して越中には未だこれを有せざりしなり。且つ加賀に在りても、亦天保飢饉の後藩吏關澤房清が初めてその移植を石川郡本吉奬勵したりと傳へ、九年に至り從來甘藷は專ら他國産なりしを以て口錢を徴したりしも、近時領内に之を産するを以て該口錢を除くべしとの命あり。然れば加賀藩三國中甘藷栽培に先鞭を著けたるものは能奧の一海角なりしが如く、この饑饉に當りて補食の用を爲しゝこと蓋し尠少ならざりしなるべし。

 米粃の食法
 こぬかは毒なるものにて、之を食へば膓胃を傷め、肌膚青腫れ、甚敷は終に死に至る也。瓦盞類のすやき物を碎きて、こぬかと共に鍋にて熬れば毒氣去る也。其を篩にて、互盞の碎きたるを降(振)り、穀類を少し加へて團子或炒粉にすべし。雜炊にまぜて可也。
 栗皮を炒粉に製らへる法
 ぬかを水に浸せば褐色の氣出る也。共色の盡るまで數回も水を換へて、後熬乾かして、一斗に大豆又は米麥のいりたるを二合計加へて石磨(ウス)にて碾也。ぬか一斗は屑七八合と成也。
 米稈にて團子を製らへる法
 藁を一分許に刻み、磨にて末にし、水にひたして褐色の惡氣を去り、米粉抔を加へて團子にする也。藁の末壹斗に、稻麥の粉ならば五六合、粟黍ならば壹升なるべし。
 右の三件はよく知りたる人もあれど、又曾て聞たることなき人も猶多かれば、今版行して其傳を普くせんと欲せり。常人は故俗に安んずと古人も言たれば、好善の君子冀くは之をこしらへて貧者に常食させ、幸に可食と謂はゞ製法を授けたまへかしと云爾。
    天保七丙申十一月二十七日               小松  湯淺寛木堂
〔富田氏覺書〕
       ○

 此邊は打開きたる所(珠洲郡松波)なり。薩摩芋苗あり。如何して作ると問へば、芋一つ春植置ば、三四十本芽立つ也。夫を四月只今頃五六寸餘に成たる分を、はさみにて切取賣あるく。一本一文位、高直の時は三四文といふ。根の無物なれども、自身の所より根生ずといふ。付安き者と見ゆ。山國食品乏き故如此ならん。故郷(越中)の山村にも植させたき事也。葉は十藥に似たり。
〔能州日暦〕