第五章 加賀藩治終末期
第一節 奧村榮實の献替
天保四年齊泰は、凶歉に備ふる常法を確立すべき必要あることを思ひ、八月四日命を算用場奉行に下して、毎歳農民をして穀二千石乃至三千石を納れしめ、以て緩急に備へんと圖れり。然るにこの年夏寒くして五穀豐饒ならざりしかば、啻に齊泰の企てたる備荒の法を實行し得ざりしのみならず、翌年には飢餓に苦しめる多數の窮民を藩の非人小屋に收容せざるべからざりき。非人小屋なるものは、第五世綱紀の時に創置したる貧民收容所なるが、その人員天保元年正月に於いて七百七十人、同年十二月に於いて八百四十人、二年十二月に於いて九百九人、四年正月に於いて九百三十一人にして、年々多少の増加を見しも未だ甚だしき差を示さゞりしに、五年二月に至りて俄然三千四百八十三人となり、その他非人小屋に籍を有して他に雇傭せらるゝ者を加へて四千百五人に上りたるは、全く前年以來穀菽不作の結果によるものにして、疫疾亦隨ひて收容者間に蔓延し、患者多きときは一ヶ月七百五十人に達せしことあり。されば同年五月藩吏、非人小屋の状態甚だしく陰慘にして收容者の意氣銷沈せるを憂へ、寳圓寺又は天徳院の僧をして大般若經を轉讀せしめて災厄を禳ふべしとの議を立つる者ありき。然るに兩寺が藩侯の菩提所たるを以て、その住僧を非人小屋の祈禱に招請するを非禮なりとして反對する者ありしかば、城下修驗者の行事たる彌彦送りを以て之に代ふることゝせり。この時藩内に於いても疫疾大に行はれしを以て、五月九日藩は醫師を諸郡に遣はして診療せしめ、又少數の醫師が到底普く山村水郭に至ること能はざるを以て、天明中諸國に疫癘の蔓延せし時幕府が頒布したる方劑書を舊記中に求め、之を謄寫して各地に傳へ、六月朔日倉廩を開きて米穀を施與し、四日には疫疾者に靈藥紫雲を贈れり。然るにこの秋大に豐穰なりしを以て、十月諸郡より二萬石の蓄米を納れしめ、六年夏に領内に備荒倉十三ヶ所の設置を實施せり。
天保四年六月當春以來諸色高直に而、此節米石に付九拾六七匁。月末印紙百壹匁迄。批(ヘキ)屋米升に付百壹文賣。 七月下旬より米高直に付批屋米二升宛より賣不レ申樣、町奉行中より申渡有レ之。印紙百十一二匁。 當秋米穀等甚高直、批屋米升百二銅。 當年凶作に付酒造例年の三の一作り嚴命。 十一月十日堂形御藏米石百十匁。印紙百十五匁より二十目迄。批屋米升に百八文うり。當年不作に付町方等一統粥給候樣觸付在る。御家中一統引免(ヒキメン)被二仰付一。下民え爲レ救諸方より粥等差出。 天保五年正月中旬より米石に付百十五六匁。批屋米升に付百十三銅極之處百十七銅迄に成る。 去秋より當夏まで大飢饉、下民多死。 當年疫病大流行、死人多。ききん翌年食事惡敷に付流行の由承る。 五月末高直下民難儀に付、爲二御救一壹升に付十銅充御引足、町會所より小札相渡。此時升に付百十五文賣。六月末より少々充下る。 當年何方茂疫病大流行に付、三州在々等御醫師被レ遣。 去年大凶作に付、奧山在々迄御救米等被レ遣。 六月下句より米次第下落。批屋米升八十一銅。七月に成又下直。 八月九月、當年豐作とて町中等豐年祭、諸方張込賑々敷。 〔文化より弘化まで日記〕 |