石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第一節 奧村榮實の献替

榮實の藩政を參決するや、先づ積弊を除かんと欲し、本多播磨守政和等と相議して、天保七年十一月四日寺島藏人秩祿を褫ひ、能登島流刑に處し、特に十五人扶持を與ふることを宣告し、翌日本多圖書政守の家にせられ、十一日藏人の養子主馬に祖父の遺跡を襲がしめて三百石を賜ひき。後藏人は配所に赴き、翌八年九月三日その地に歿せり。年六十二。藏人諱は兢、應養と號す。人持組原彈正元成の第三子にして、馬廻組寺島右門惠和の嗣となり、享和元年祿四百五十石を食めり。三年六月藏人高岡町奉行に任じ、文化三年七月罷め、御普請奉行當分加人・定檢地奉行改作奉行等を經、十年十一月大阪御借財御仕法主付を命ぜられしが、十二年十一月職務不念の廉を以て役儀を除き指扣に處せられ、十三年正月赦さる。次いで文政元年八月頭並に列し、改作方勝手方御用を兼ね、翌日御横目に轉じ、二年正月之を罷め、三月遠慮に處せられ、七年二月免されて馬廻頭に列し、三月宗門奉行を兼ぬ。而して八年三月役儀を除き逼塞を命ぜられ、天保元年七月赦されたることは既に前に言へる如く、こゝに至りて遂に配流の重刑を蒙れるなり。彼が卓犖不覊にして一隻眼を具ふると共に、世潮に順應すること能はず、轗軻蹉跎の生涯たりしを見るべし。嘗て山崎庄兵衞に書を與へて曰く、試みに郊外の村落に到れば、貧民の終日營々として得る所僅かに錢百五六十文に過ぎず。而して一家五口を有すとせば、その食む所の穀價百四五十文を要し、餘す所は十文にして副食物を購ふに足らず。飢ゑざらんと欲するも得べけんや。飜つて足下の秩祿を見るに、今米價一石六十目と算すれば、一日の收人三百數十目に當る。而も足下の爲す所の業績果して幾何なりやは自ら問うて知るべしと。又嘗て齊廣に告げて曰く、君漏屋の説を知れりや。屋下の人に非ざれば雨の漏る所を知ること能はざるなり。之を譬ふるに廟堂は尚屋上の如く、而して群臣衆庶は皆屋下の人なり。屋上にあるもの如何ぞ漏と不漏とを知るを得んやと。以て藏人の着眼する所の非凡なりしを知るべし。彼が閑に乘じて丹青に親しみ、餘技として頗る堂に入るものありしは、亦多藝の人たりしを察するに足る。然れども憂國の至誠迸發するとき、間々權貴の威嚴を冒涜することあり。彼が天保三年に著ぜるふぐ汁の咄に、藩侯齊泰を評して『まづ當時の御樣子を申さば、大家歴々人持中の子息若旦那の至而行状宮方の御体たらくの樣にて、三州の御太守樣たる御心得御修行を一切承り不申候。』といへる如きは、之を激勵鼓舞して頽勢を挽回せんとの意に出づること明らかなりといへども、亦藩臣たるものゝ言として放膽に過ぎたるの感なくんばあらず。これ實に藏人が罪を得るに至りたる所以なり。黨時藏人と議論を上下したるものには、成瀬掃部當職あり、字を子典、號を晴雪又は迂齋といひ、山崎庄兵衞範古あり、字を君脩、號を神齋又は穩齋といひ、篠原監物一精あり、號を敬齋といひ、皆職家老に班せり。而して多羅尾左一郎・坂井小右衞門・山本中務・岩田内藏助その他二人は、藏人と共に七本杉と稱せられ、皆憂國の志士中一頭地を抽でたるものとして世の注目を惹けり。此等の徒多くその職を罷められ、黨爭初めて絶ゆ。

                               寺 島 藏 人
 御手前儀、心得方不然儀有之候に付、先年より毎度御咎等被仰付、就中金龍院(齊廣)樣御代文政二年御咎被仰付候節、段々被仰渡之趣も有之候處、今以其身に不預儀を蔭に而取組之族共相聞、御政事の害に相成候。假令志は御爲与相成候儀に候共、致方不宜候故皆以御不爲と相成儀に候。全躰御先代樣被仰出之趣を忘却仕候段、不屆千萬に被思召候。依之能州島之内蟄居仰付、御知行召放、於配所十五人扶持被下。配所へ發足迄は人持御預被成候事。
    天保七年十一月
〔文化より弘化まで日記〕
       ○

 天保七丙申十一月四日早起(寺島藏人)如毎、登樓筆を採て青緑山水を畫く。于時篠原敬齋より、奇絶之書畫有り、來て見よとの書翰來る。予之好處、且久敷不面晤、依而欲行。短景午に至る、一飯を食し則行。主人互に平安を賀し、後出す處の書は程正齋が書雙幅也。奇哉此書幅、予が舊友富田源内[御射手號伯 氏亦菁莪。]が珍藏する處の物にして、且而見る處の物也。其の他美人の畫あり。程子之幅、富田癡龍翁之傳記、曁岡野友輔が記あり、則幅に添。傳記中に云、昔山本源右衞門(基庸)の所藏の物にして、葛卷權佐昌興謫所の壁間に掛愛翫する所のもの也と。眞僞雖知書體古雅、誠に可尊可敬。雅談終而昌興の事におよび、こゝろに思昌興至誠忠良の臣たること賞歎數刻にして、尚情を殘して出、原黄崕え立より此頃疎濶之情を演、心嬉敷家に歸。然處門内に人有り、從何方と尋ぬるに長又三郎(連弘)使也。怪み入而紙面を見るに、御用有之追付長家え可出与之書面也。依而妻子家臣を集め何れに茂是自分家之凶事至る處也。何れも其心得に而可罷在与申入。長家え行處門内釣提灯其備不一方。廣間へ通る、長檠高張嚴重也。暫して御横目[兒島五郎右衞門 羽 田 三 作]誘引、帶刀を取候樣申聞。從夫又三郎前え出る[奧村内膳(惇叙) 立會]御書立を以、能州島地え蟄居仰付、御知行召放、拾五人扶持被下。配所出來迄人持え御預と也。懷中下ヶ物御徒横目兩人可請取之旨申聞、相渡す。曉天に至而食事[一汁二 菜。]警衞之士多、いづれも無刀、予が前を過る者中座之敬を不失。翌五日本多圖書政守え御預と成、長家に有内何れえ御預と云事を不聞。五時過本多家之家臣多罷越、衣服を脱替させ、本結を拂ひ紙に而結へる。衣服、ヱリナシ、紐付、帶なし。長家を出る時、警衞の士數多手を付いて伺向す。故に進而及挨拶、式臺横間之内より乘物に乘出。途中の衞士都合五十三人、四時過本多家え著、乘物の儘間之内えかきいれ、あやしの囚屋にいる。圖書挨拶、可相愼之旨。從此方も及挨拶、衞士追々出でゝ挨拶す。途中之警衞之土左之通。
  徳田太左衞門  上野半左衞門  上坂豐太夫  川崎左平太  高木豫六郎
 濱田鎌之助  岸川喜左衞門  杉本松之助  幸坂兵馬  村谷忠左衞門
  村本善藏  右之外足輕十三人、都合五十三人。
 日夜之衞士
  澤崎七左衞門  馬淵孫兵衞  上坂豐太夫  内田喜太郎  濱田鎌之助
  川崎左平太  藤江八百七  小島友右衞門  櫻井徳三郎  曾川源八
 懸り役家老
  今村安右衞門  上野半左衞門  徳田太左衞門  小山忠太夫  伊藤林太夫
  上野藤兵衞  長谷川平右衞門  此外徒組髮結役岸川喜左衞門・村本善藏等四人。
 可憐妻子舊恩之臣等、假初に別出て豈計ん生涯の離別となる事を。只茫然不事之是非。曾聞、丈夫非涙敢て離別之間に不濺と。歎息數行於此無語。
 風雪烈敷いと物冷しき夜半に、妻子舊恩之臣等流浪之身と成、何れへ立退しにやと思ふこゝろの切なる、あはれとも又いふべからず。
 文政二年詠ぜしを思ひ出ぬ。『君がため民のためとて碎く身の爲としならぬ世をやなげかん。』君を思ひ國を思ふこゝろ、月花風雨霜雪片時茂わするゝことあたはず。今年荒歳此社稷を如何。鳴呼生民何之罪かある、悲嘆無止時
 金龍公(齊廣)御前へ罷出たる時、大地縫殿左衞門を以予え御意あり。世之ことわざに千疋の鼻缺猿の中に一疋の眞猿と申事あり。千疋之鼻缺たる故に一疋の眞猿を不具なりとして終に殺と申譬あり、可心得の御意を蒙りたる事あり。此御意子孫に聞せん爲今爰に記。
 此砌主馬病(寺島藏人壻)ありて久世家にあり。不對面之遺恨何れの日か盡む。
 警衞之上口々に予に告る。追付名跡可仰付歟の世評頻に流言すと也。然所同十一日主馬より主人政守え使者[田中仙 右衞門]を以て、今日被召出之段普爲聽申越、此段藏人え被仰付下、且安否茂問告越。使者を以藏人え爲申聞度不指支哉与御用番え窺候所、不指支旨也。此後被召出候御禮申上候儀も使者を以申越、君命之委曲系圖帳に記を以而爰に不記。
 高山深海之君恩、何れの日か報い奉らん。予享和元年被召出、四百四拾石頂戴し、耳順之初度にいたるおよそ三十六年、秩祿凡一萬六千二百石を給ふ、黄金直して[石五拾目として 現米七千石餘代]凡三百五拾貫と成。此賜之御奉公何を致來や。嗚呼君恩之重き、群臣此意を思ふべし。
 時烈寒肌に透る。主人政守慈愛を以篗(ワク)火鉢を被惠。囚之内初而寒を凌ぐ。政守の慈愛に報いんとて詠る。『埋火の深き情にしら雪の降ともしらで過にけるかな』
 世々天恩の厚を荷ふ。何ぞ是に答ふるものゝ少き。
 主人政守の能節儉を守る、下著肌著も悉く綿衣也。肩衣・袴。予囚と爲り、日三度見廻り之砌別之衣を不見。閨門隨而綿衣之旨、稱すべきの甚也。

『海上がたく鹽木の中にこりもせでたゞに櫻の朽やはてなん』と昔詠しを思出でゝ、また『もしほたく小島の海上の鹽木にも朽し櫻は世になにかせん』

 娘應姜え遣さんとてかき置ぬ。『君がため民のためとて碎く身の骨こそ父がかたみとぞ知れ』
 十二月二十日夜夢に、とある社に詣で神拜まんと入しを、宮守とおぼしき人の歌よまざれば入まじと制せしかば『民艸を惠むの外に事ぞなき神のこゝろになにたがふべき』と吟じ、神前に額づきたりと見て覺ぬ。
〔寺島藏人自記〕

寺島應養畫 金澤市森凉氏藏