石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第五章 加賀藩治終末期

第一節 奧村榮實の献替

奧村榮實河内守尚寛の第四子なり。通稱は義十郎、後に助右衞門と改め、止齋と號す。文化元年齡甫めて十三にして父の後を襲ぎ、三年年寄席の見習を命ぜらる。文政元年八月榮實事を以て齊廣の譴を得、月番加判以下一切の職務を解き謁見を禁ぜられしが、後謁見のみはこれを免さるゝことゝなり、三年伊豫守に任じ、七年改めて丹後守といへり。この年齊廣卒したるを以て藩侯齊泰政を親らしたりしが、齊泰は深く榮實を信じ、屢人を介してその意見を徴したりしかば、榮實の言動自ら論の指南たるに至れり。天保五年齊泰又國用足らざるを以て冗員を陶汰せんとの意ありしに、老臣奧村惇叙は旨を承けて得失を榮實に謀り、九月朔日榮實は書を以て應へ奉れり。曰く、凡そ政事に根幹あり、枝葉あり。その枝葉をして繁茂せしめんと欲せば、宜しく先づ根幹を培養せざるべからず。而して所謂政事の根幹とは即ち人君の一心にして、之を政綱の上に就きて言はゞ賢才を進めて無能を退くるに存す。然るに今徒らに冗員を陶汰するに急にして、賢才と無能とを擇ばずんば、或は賢才の去りて無能の止る患なしとせず。苟も根幹にして確立し、先後輕重の度を誤らずんば、その勢必ず我の期する所に赴かざるを得ず。苟も根幹を定めずして冗員を減ぜんとせば、偶奸邪をしてその名を陶汰に假りて己に不利なるものを擯斥し、その黨與を諸局に配置して惡計を逞しくするを得しめんのみ。若し夫單に吏の數を減ずるを目的とせず、賢才を進め無能を退くるを旨とせば、特に財用を節するの要を得るのみならず、又以て良政を布くの基たるべし。而して如今之を斷行するは實に千載の一時にして、好機決して失ふべきにあらざるなりといへり。是等榮實の所見は頗る時人の重んずる所となりしかば、今や年寄等は公然榮實を擧げて自家の勢力を加へ、以て藏人の一味に大打撃を加へんと欲したりしに、齊泰も亦その意を容れ、天保七年榮實に優旨を傳へて月番加判の職を授けんとせり。榮實辭して曰く、臣は先侯の重譴を蒙りしものなり。然るに今先侯の在らざるに及びて忽ち要路を汚すが如きは、衷心甚だ安きを得る能はざる所なりと。齊泰連りに之を慰藉し、遂に親ら先侯の廟を拜してその罪を宥さんことを乞はんといふに至れり。榮實大に恐懼し、乃ち日々政廳に出でゝ樞機に參與するも、月番加判の職に至りては固く之を辭せんと請ひ、遂に齊泰の同意を得たり。爾後天保十四年八月榮實の卒するに至るまで、政治は多くその畫策に出づ。

奧村榮實詠草 金澤市黒本植氏藏