石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第五節 社會種々相

人心の浮華輕佻となり、金に對する慾望の増長する時、恒に一攫千金を夢想する投機心の勃興を見る。富突の盛に起りしもの亦實に之が爲なり。寛延三年四月町奉行青地彌四郎蕃宣が執政奧村丹後守修古に提出せる稟請書に、近時能登に於ける幕府領及び富山藩に於いて富突の流行を來し、加賀藩の士民にして之を買入るゝものあるを以てその實情を精査せしに、内の寺社に於いても亦賣買を周旋する者あり。因りて自今凡べて禁止するの令を布かんといへり。然るに寳暦十年に至りては、山中醫王寺大聖寺藩の免許を得て之を行ひ、加賀藩に在りても小松の梅林院・金澤觀音院に於いて私かに主催せるを初とし、明和元年前田駿河守孝昌が執政たりし時、石川郡の大野湊神社・金澤の神明神社・鹿島郡の石動山天平寺等の僧徒尸祝が許可を得たるより初めて公行の弊風を馴致せり。堀樗庵の著せる三州奇談に、當時行はれたる富突の弊害に就きて述べたる一節あり。曰く、『頃年所々の佛閣造營の爲とて、富突といふ物はやりて、纔かのあたひを定めて多く札をよせ、錐を以て箱の中を突きて、一丁に依て過分の金を褒美として相渡す。これが爲に人々家を沽却しても札を入てをしまず。彼札開の日に至りては一心に神佛を念じ、拳を握りて待つ。此故にや、佛閣・社頭の札を突所に於いて箱の中へ錐を下す度ごとに、穴の中より火燃え出づるを見ると云ふ。心を靜めて見るに違はずといふ。此事を聞きて、さては富突の金は人の執念深きにこそといふ者あり。此論紛々としで決せず。』といへり。後段記する所は、著者が訓戒の意を寓したるに過ぎずといへども、その如何に盛况を極めしかは之を知るに難からず。重教の世に於いて富突の盛に行はれたるは政鄰記に載する所の如く、郡部の寺社にして金澤に出張興行するもの多かりき。然るにその弊頗る甚だしかりしを以て、明和三年六月、富突禁止せずんば藩侯歸國を待ちて有志の徒八十二人生命を抛たんとすと記したる訴状を街路に遺棄せるものあり。幕府もまた同四年八月博奕・三笠附・取退無盡と共に富突を嚴禁すとの令を發せしかば、九月晦日老臣本多安房守政行・前田駿河守孝昌は之を領内に傳達せり。而も餘弊全く止まず、その以後に於いても、尚寺社修繕の爲にする萬人講の名に隱れて之を催したるもの少からざりき。

 十月二十六日(明和五年)、越中立山岩峅寺諸堂爲修覆萬人講十三會、川之(金澤)上春日於社頭興行。芦峅寺同斷、津幡弘願寺興行。但札渡子受取渡所は於觀音町壽經寺取唀。御用番山城守(横山隆達)殿御聞屆。
 十二月二日、能州富木大福寺萬人講十會、泉野寺町眞長寺同斷四會、御聞屆。
 右富突寳暦十年以來所々に有之候得共、内々に而被押立候處、同十四年(明和元年)正月六日御用番前田駿河守(孝昌)殿左之通御聞屆、願之通被仰屆、御縮方之儀夫々被仰渡之。
  十三會 寺中。  五會 神明。  十會 石動山
 右石動山は、田井天神社内にて相願候得共聞屆無之、於能州興行致候樣被仰渡
 九月七日、卯辰八幡社於社内十會、黒津船八會富突。十月廿一日白山富突、卯辰於觀音院札開。但長吏願。
 閏十二月六日、卯辰觀音院十會、小松梅林院十五會。
 明和二年六月廿六日、越中大岩山日石寺、同國安居寺富突小松養福院六會、能州三崎高勝寺大宮十五會、野町於神明富突十一月朔日、能州一宮二會、寺中社頭興行。
 明和三年四月十五日、能州瀧谷妙成寺萬人講三十五會、札開所卯辰三寳寺、金取遣所卯辰蓮花寺。十二月二十日、倶利伽羅長樂寺富突十二會。
 明和四年五月三日、石動山寺社爲修覆用萬人講十五會、寺町於眞長寺興行。九月四日白山社頭爲造營萬人講三十會、長吏神主願。同十八日埴生八幡宮社寺等爲修覆十會、札開所鍛冶町八幡社内。十月十九日能州吼木山法住寺爲堂社修覆十會、札開所宮腰道入寺。
〔政鄰記〕

富籤札 金澤市大友佐一氏藏  抽籤器 石川郡鶴來町藏