石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第五節 社會種々相

阿武松緑之助は、鳳至郡七海村の農仁兵衞の子にして、幼名を長吉といひ、初は馬子を業とせしが、膂力群に絶せしを以て力士たらんと欲し、文化十二年齡二十五にして江戸に上り、武隈文右衞門の門に入りて小車と稱せり。然るに彼は徒らに多飮多食にして鬪技頗る疎放なりしかば、武隈は遂に成功の望なしとし、一歩を與へて歸國を命じたりき。小車乃ち旅程に上り板橋に宿せしが、以爲く、我一たび志を立てゝ江都に出で、而して今爲す所なくして故郷に歸らば、何の面目ありてか父母と朋友とに見ゆるを得んやと。因りて旅宿の主人に請ひ、その紹介によりて更に錣山喜平次の弟子となり、小縁と稱し、同年麹町心法寺境内の興行に初めて序口に列せらるゝを得たり。次いで又小柳長吉と改め、文政二年春幕下二段に上り、五年春淺草藏前八幡の花相撲に先師武隈と角して之に勝ち、同年冬幕内に進み、七年小結となり、九年冬大關となる。翌十年春芝神明の興行に小柳の名を改めて阿武松緑之功と稱したりしが、力量技巧天下に比なきを以て、十一年終に日下開山横綱免許となり、長門藩侯毛利齋廣の抱力士として廩米五十俵を得たり。是を以て相撲番附には長州阿武松緑之助と記さる。天保四年の日記に『當秋淺野川大橋上に而大相撲興行。束關緋縅、西關阿武松。』とあるる亦これなり。後嘉永四年十二月九日阿武松六十一歳を以て歿し、深川淨心寺に葬る。阿武松嘗て故郷に歸り、白山神社に幟を寄進し、又花相撲を興行してその番附の額面を納めしが、今皆所在を失へり
阿武松於三都相撲相勉大略記
 文化十二年糀町拾丁目於心法寺境内相撲興行。此時小柳長吉序口載。同十三年上二段上る。同年二段上。文政二年春幕下二段へ上る。同年冬二段。同四年東へ廻り二段。同五年七月幕へ上。同六年幕八枚目。同七年小結へ上る。同八年冬關脇へ上る。同九年冬於本所廻向院大關相成。同十年春於芝神明名呼阿武松緑之助。同十一年於本所廻向院横綱。厥后天保六年迄毎歳大關相勤。天保十四年冬相撲より年寄与成。凡從文化十二年天保六年迄二十一年相勤相撲數三百五十一番、其内貳百五十九番勝、五十一番負、別分預分無勝負四十一番也。
    安政二年十月建之                  武隈 千右衞門
                              勇 島 磯 吉
                               小 柳 常 吉
                               千賀浦 庄 吉
〔阿武松緑之助碑〕