石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第五節 社會種々相

この時期に於いては風俗韮薄に流れ、男女間の關係亂雜殆ど言ふに忍びざるものあり。寳暦五年銀札發行せしがその法宜しきに適せず、幾くもなくこれを廢するの止むを得ざるに至れり。時人或は寳暦鈔説を作り、方今の窮乏を匡救する所以は、通貨を増加するにあらずして風を移し俗を易ふるにあることを論じ、且つ彝倫の弛緩せる實状を述べて、『妻ある者にして妾を置き、妾を妾として足れりとせず。又別に媚を献じ床を同じくする姝麗者ありて、各舘の諸閨閤に周旋し、俗に之を通妾(カヨヒメカケ)といふ。』といへるもの、實に沈痾の骨髓に蝕せるを見るべし。此の如きは移動制の娼婦あるに等しく、然らざるも止る時は則ち士人の妾縢となり、去るときは則ち市井の賣婦たるもの多く、爲に惡疾の流行甚だしく、遂に餘殃をその所生の男兒に及ぼして、武士たるの任務を全くすること能はざるものすらありしかば、寛政二年七月法令を發してこの種の蓄妾を嚴禁したることあり。又同じ頃の法令によりて、諸士が遊興の爲に忍びて町家に至るものあるを不埒千萬なりと訓戒したることありしが、固より滔々たる頽勢一片の空文を以て之を挽回すべくもあらず。木に在りても尚同樣なりしごと、之を文久二年豐島安三郎毅の建白に徴して知るべきなり。

 寳暦元亥之秋。本金澤政府。命令代楮幣。世俗謂銀札。倡而不和。大躓不行。不期年而熄焉。君子曰。此擧也。是爲其都下人士之窮。而一旦出于不已矣。其於惠恤之意也。可仁之方哉。雖然從來都人士之風。奢侈縱肆。極美於居宅園池。盡麗於衣服器玩。是則亡論。或有妻者而置妾。妾妾而不足。又別有媚同床姝麗者。周旋於各舘諸閨閤。俗謂之通妾。而日夜飽美味。淫佚逸豫。習以爲常。及庶人則奴隸賤婢。亦僣飾美服。是以士人之正室側妾。恐之相劣。愈強飾美。於是乎上下交奢侈。而不自知其奢侈矣。悲哉。都下之窮厄職之由。上知其窮。而不其所以窮焉。號令曰。宜奢侈儉約。人士聞之也。不敢戻令犯法。雖愼守之。若淵水津涯。不其所爲。一國從來之習俗。無何之。是以償以。而窮乏之不償。却爲奢之媒。宜哉。當時償以楮幣。其法不行也。語曰。惠而不費。今如彼楮幣。乃可費而不惠哉。鳴呼後之爲經濟者。欲風易俗。先定其服色。毀其廣宅。以明節儉之道之。庶幾爲闔邦質朴至治之政教乎云爾。
〔寳暦銀鈔説〕
       ○

 近來賣女躰之者、妾に仕候者多有之候故、出生之子供惡疾傳染仕、武役全難相勤者も有之躰、不所存之事に付、自今右躰之女召仕候段相知候はゞ嚴重相糺、品により可御内聽候。此段可申渡旨被仰出候事。
    寛政二年七月
〔袖裏雜記〕
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 惣而諸士たる者、十四五歳より四拾餘歳に至り候迄、文學武術に精を勵まし、閑暇無之譯に御座候處、乍恐此頃諷・亂舞又は茶式等之遊情之藝に耽り、子弟謠を知ざれば耻敷思ひ候得共、文武に熟せずして耻とせず。尤柔情の風は、御知行五六百石以上を領する士の子弟、十七八歳に相成候得者皆大抵妾を置申候。壯年文武藝道最中なる者右樣之風俗にては、偏に太平三百年來自然之風俗とは乍申、歎はしき次第に奉存候。是迄之風俗嚴敷御一洗不在候而は、士風は振起不仕と存候。
〔文久二年豐島毅建白書抄〕