石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第四節 教諭政治

治脩吉徳の八男にして、加賀藩第十一世の主なり。延享二年正月四日金澤に生まる。母は藤堂侯の臣園田喜右衞門の妹壽清院。治脩童名を時次郎といひしが、同三年四月二十八日越中射水郡古國府勝興寺の住持に内定したるを以て名を尊丸と定め、次いで寳暦六年閏十一月二日勝興寺に移り、十一年三月西本願寺に得度して闡眞と改め、後藩侯重教子なかりしを以て、明和五年十二月十八日闡眞に命じて還俗せしめき。依りて六年二月朔日移りて金谷御殿に入り、名を時次郎に復し、同月六日諱を利有と稱し、八年二月江戸に至り、四月二十三日重教致仕したるを以て家を襲ぎ、六月二十五日柳營に於いて首服を加へ、正四位下左近衞權少將兼加賀守に任じ、將軍家治の偏諱を賜ひて治脩と改む。安永元年十二月十八日治脩左近衞權中將に轉じ、寛政四年十二月十五日參議に進みしが、享和二年三月九日致仕し、同月十一日肥前守となり、文化七年正月七日享年六十六歳を以て金谷殿に卒し、九日發喪す。諡して太梁院俊山徳英といひ、野田山に葬る。後大正六年十一月十七日特旨を以て從三位を追賜せらる。

前田齊廣畫像 侯爵前田利爲氏藏