石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第四節 教諭政治

この時代に於いて大土木を起しゝこと二ありて、その一を二丸の造營とす。二丸は藩侯の居舘及び廣式のある所にして寳暦九年新造せられしが、文化五年正月又に罹りしを以て直に工を起し、翌年四月二十六日に落成移徙せるなり。その竣功の速かなりしに拘らず、構造の批麗前に倍蓰するものありしは、一に封内士民の爭ひて資材を進献したるにより、その金員五千貫目を超え、木竹に至りては擧げて數ふること能はざりしといへり。是を以て表式臺・虎の間・實檢の間・竹の間・矢天井の間・小書院・瀧の間・芙蓉の間・牡丹の間等、寳暦後久しく闕如したりしもの皆舊制に復することを得たり。殿閣の成るや、六年八月加賀の出身にして當時京都に住せし岸駒岸岱二人之招き、その屏障に畫かしめき。岸駒金澤に來りし時行裝の盛なること、一畫人としては實に空前絶後なるものあり。葢し目木繪畫史中の一插話とするに足る。

 八月十三日(文化六年)左の通被仰付。
                         京都畫師  岸  越 前 介
  右越前介、今般御當地へ被召候に付、今月中旬京都發足罷下候筈。十六日・廿日の内に立候。供廻り十九人[内四人若黨に而箔押 表具師紙細工之者]且せがれ筑前介(岸岱)も召連候へ共、門人同樣之趣を以召連候。門人者村上健亮・齋藤霞亭・松木文平・望月左近与申者召連候事。
 右之趣京都詰人土師左膳・溝口藏人より申來候條致承知、御貸家等不指支樣可致置旨、今日御月番奧村助右衞門(榮實)殿被仰渡候事。附、越前介儀、元來御當地町人也。
 八月廿六日、前記十三日に有之通、京都畫師岸越前介[禁裏衞 士官]・同筑前介同參着。御貸家袋町金屋傳次郎方。且召連候人數者前記之通に候得共、今日者侍役人上田左兵衞・侍分四人・鑓持駕舁等十八人外に宿次人足先拂兩人召連來。去廿日京都發足、七日路に而昨廿五日小松止宿、今日七頃右傳次郎宅え參著。附、京都に而者一僕召連發足与云風説も有之。右越前介元來御國金澤産也。父者大衆免片原町[俗に沙 走与云]に居住、仕立屋豐右衞門とて袴等仕立縫物家業。母者越中東岩瀬之者に候處、右豐右衞門え嫁す。男子二人有之、兄は彌左衞門、弟は乙次郎[後改健助、雅樂助、 當時越前介也]と云。乙次郎十二歳之比、母衣町辰屋與左衞門と云紺屋え丁稚奉公に入、染物紋上繪裾形等手傳二三年罷在。但母方之内縁も有之、旁與左衞門方に相勤居候由也。右乙次郎幼少より畫に志深く、不習して能畫候出。就中父豐右衞閂、袋町永井屋太郎兵衞方に暫借家候後、下近江町三番町に家相求引移。其比は乙次郎成長、改名健助与號し、賣畫を家業として渡世。其後父死、安永九年健助上、子年子日に生れ候由を以大黒天之繪をば賣弘候處大に流行。其後江州彦根え罷越候處大に畫行はれ、夫より歸仕、佛光寺之襖張等畫候處、或時有栖川樣佛光寺へ御出、右畫御覽請甚御感稱に而、名前等御尋候砌、御衝立に繪被仰付候處甚應御意。依京都住人に相成、名も岸雅樂介と改稱し、其後禁中之衞士官明所有之に付株買求願、禁中は當時も衞士之官也。[六位と 云々]
 一、於京都初には柳馬場蛸藥師下る所に借家し、母も引越居候處、次第に畫大に行れ[掛物一幅畫謝禮金千疋、屏風一双畫謝禮金二十兩、 右は麁畫にての禮物。彩色等に至而は段々上達与云々。]天明年中禁裏炎上再營之後御襖繪相調、其後關東御用畫も被仰付、文化元年東洞院丸太町東側に家相求居住、名越前介与改之、年齡今年五十四歳与云々。子息太郎与號し、是文畫相應に宜、去年是も衞士官株買求、筑前介と改稱す。
 一、越前介兄彌左衞門儀者、父死後材木町に借宅、其後新町に家求、袴等仕立物を以渡世之處、兎角勝手難澁に付、十六ヶ年前舍弟越前介御當地へ下り候節、子貳貫目令合力、此子を以玉井主税人夫方株足輕に相成、右足輕株跡式讓受候爲代壹貫三百目出し、殘而七百目は越前介え令返濟候由。彌左衞門今年六十二歳也。右十六ヶ年已前下り候節は、尤健助与申せし比也。
 一、右彌左衞門せがれに彌次郎とて、新町父家にて仕立物家業に致し居候處、今春尾張町に家相求引移袴屋与號し、父彌左衞門儀もせがれ彌次郎宅へ同居の事。
 一、今月二十一日岸越前介儀御會釋方、荻野左衞門尉被召候節之格合に而少し可也に可取計旨、御用番助右衞門殿被仰渡候に付、其旨夫々申渡置候事。
 一、越前介登城之節、供人從士二人・陸尺六人・侍四人・鑓持・長柄傘・草履取壹人・傘持壹人・挾箱持壹人、外に畫御用被仰付候節は長持一棹爲持候旨申越、御城代へ連申置候事。但御門内より御玄關前まで、侍二人等本文之通召連候事。
 一、せがれ筑前介儀、今般爲扶助召連候間、登城之節は草履取一人爲召連同道仕候。外に弟子共も召連候段申越候に付、筑前介迄罷出候節は侍も一人召連候筈。弟子も其身迄出候節は、草履取壹人宛召連候事。
 廿七日、昨日記に越前介・同筑前介も衞士官与記置候得共、其儀相違。六位に而、禁中勤向者新甞會之節御別殿え御幸之砌御輿之先え燃火持參之外、右准候勤向有之由云々。
 九月廿六日
 前記八月廿六日記に有之候岸越前介等、今月二十六日初而二之御丸え召、虎之御間等襖張付に被仰付候繪被仰付。其節途中町附足輕二人指添、御玄關より御玄關番足輕溜所迄誘引、御賄坊主給事に而被之。但御目見等に罷出候節は、御式臺より當番御歩誘引之筈に候得共、御繪書御用故本文之通也。翌廿七日より者御賄も相止、旅宿[御貸 家也]より辨當指遣候事。
 一、右越前介儀、何卒御序を以御目見被仰付下候樣相願候に付、前月御用番へ岩田氏より願紙面差出置候處、右御目見者不仰付候旨御用番又兵衞(村井長世)殿被仰聞、其段申渡有之候事。

十月廿八日、前月九月廿八日に有之岸越前介儀、實名昌房、名は駒、字は賁然、舘號は同巧舘、堂號は可觀堂、息筑前介實名は國章、虎頭舘、卓堂。

 十二月十四日、岸越前介儀歸之御暇被之候に付、今日御貸屋え御使御大小將齋藤甚十郎を以左之通被之。
 白百五十枚・生五疋・串海鼠一籠。
 一、明十五日御目見被仰付候條、五時過二之御丸え罷出候樣申渡。拙者儀(津田政鄰)も可登城旨。御用番奧村左殿登城、裏御式臺續御廊下に塀風圍出來、其所に爲溜、檜垣之御間三之間に而御太刀馬代献上之、御目見被仰付、目録披露、御奏者番岸越前介与唱之。
 右相濟於御次左之通被之、人見吉左衞門御意之趣演説、御目録渡之、自分誘引取合、御禮申述。
  白二十枚・生二端。
 相公樣より左之通被之、人見吉左衞門一集に演述。
  白十五枚・染物三端。
 外に金三十兩、爲路用之。
 十六日、岸越前介儀、今朝發足歸。依之於御貸屋御料理被之。挨拶人御臺所懸り與力、給事坊主
 文化七年九月六日
  白百枚・染物五端                京都畫師  岸  筑 前 介
 外御内々を以白二十枚・生三疋。
 右筑前介御用相濟御暇被下、近々發足歸之筈に付、今六日旅宿え御使御大小將北川榮太郎を以被之。九月十三日岸越前介せがれ筑前介儀、前記六日記之通に付、今朝四時過發出歸。父越前介發出之節同事、今朝於御貸屋御料理被之。挨拶人御臺所附與力相詰、給事坊主。但御路用金小判二十兩被之。
〔政鄰記〕