石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第四節 教諭政治

文政五年齊廣は、從來千萬言を費して訓戒するも些の効力なかりし士人に謝し、亦頂門の一針を加へんと試みたりき。この年十月五日齊廣教を組頭に下して曰く、余先に卿等に委するに奢侈を抑へ風俗を正しくするの任を以てせり。卿等乃ち余の意を體し、力を説諭に盡くして能く士風を一變するに至れるもの、余の甚だ之を嘉する所なり。然りといへども進むの難くして退くの易きは人の常情なり。况や太平二百年に亙りて弊習骨髓に徹したるが故に、之を覺醒せしめて教化を一新せんとするは實に難しといふべし。夫れ風を移し俗を易ふるは、古の聖賢も亦容易ならずとせし所。况や余の不敏を以て之を爲さんとするには固より大に努力せざるべからず。卿等宜しく聖經賢傳に基づき、余の心を以て卿等の心となし、因りて余の期する所を貫徹せしめよと。是の月八日藩臣中禁を破り法を害ふ者を檢擧して、その巨魁三人を流し、三十一人を閉門又は減知とせり。因りて又教を組頭に下して曰く、頃者一日の中に三十四人の士を罰せり。而して余をして敢へてこれを斷行せしめたるものは、これ即ち卿等にあらずや。の制卿等に隸せしむるに配下の士を以てし、卿等をしてこれが教養監督の責に任ぜしむ。然るに卿等部下の士その誠に違ひ、徳に興らず淫に流るゝものあるも、卿等は勉めて之を余に知らざらしめんと欲し、以て不測の譴責を免れんと希へり。是を以て言路壅塞し下情上達せず。小惡ありとも矯むること能はずして益非行を増長せしむるものあり。かくて犯す所の罪大なればその刑も輕くする能はず。父母妻子たるものゝ悲愁また察すべし。余これを思ひて寢食を安んぜざること數日に及べり。而も禮を崇び義を重んじ邪を罰し正を賞するは、これ政事の大經なるを以て、今より後若し這般の事あらば亦決して放置するを許さゞるなり。庶幾くは卿等、余が士民を見ること猶赤子のごとくするの意を體し、漫に勢威を挾みて部下を枉屈せしむることなく、信義を以て配下に臨み教戒倦むことなくんば、彼等自ら惡を爲すの耻づべきを知るに至り、舊弊初めて除くべく陋習以て革むべきなりと。

 文政五年十月十八日(八日)閉門仰付人々 御馬廻組馬淵長太夫五百石。後斷絶 堀爲平四百五十石。百石御減少 片岡左膳二百石 平松庸之助二百石 小篠善四郎百五十石。三十石御減少 原順左衞門百五十石。三十石御減少 奧村喜兵衞百五十石 定番御馬廻岡山森江百三十石 福田余所助百石。十石御減少 河合得馬百石。後斷絶 篠田余太夫百石。後斷絶 矢部七郎兵衞百三十石 今村宇兵衞百三十石 長屋仙次郎百石 御異風分部十左衞門百八十石 今村吉平百五十石 與力石原伊太郎 植松七兵衞二百石 徳田仙助 服部新左衞門 坂井松三郎 生熊與三兵衞 永井助進 澤崎元右衞門二百石 中村和作 杉野覺左衞門 豐島平三郎 定番御歩小石彌八郎御細工者金子武右衞門せがれ金子甚左衞門親武右衞門へ急度御預 御馬廻頭組一色源右衞門千五十石 堀與一右衞門二百石。此兩人越中五箇山流刑 定番御歩大脇六右衞門能州島之内流刑 御弓師岡源左衞門閉門 御醫師大石三益一類え急度御預
 其後茂追々御咎有之、町人等茂大勢御咎被仰付
〔文化より弘化まで日記〕