石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第四節 教諭政治

十村の先に罪を獲るや、新田裁許等にして登庸せられて之に補せらるゝものありしが、その職務の何たるを解せずして濫に暴威を振ひ、改作奉行の輩も所謂嚴政の名目に拘泥して紀綱を紊亂する者多かりしかば、文政四年新奉行を罷めて前任の者を復役せしめ、新十村も亦悉く職務を免ぜられき。是に於いて改作奉行は、十村の職務を執るものは、藩侯利常改作法を實施したる時より連綿たる舊族にあらずんば成績を擧ぐること能はずとなし、かの能登島配流せられたる者を起用せんと稟請ぜしに、老臣等刑餘の人を用ひて重任に當らしむること能はずとなし、之を却下すること數次に及べり。因りて改作奉行齋廣の近臣を通じ、藩侯の面前に於いて老臣と是非を論究せんことを請ひて許されき。この日齊廣障子を隔てゝ座し、その紙は悉く小刀を以て幅三分毎に空間を切除して透視に便ならしめ、而して老臣改作奉行とは相對して左右に居並べり。奉行等乃ち、舊族の十村登庸するにあらずんば收納等一切の事務澁滯するの恐あるべしと述べ、老臣は獄に投ぜられたるものゝ農吏に任ぜられたる先例なく、藩侯に對しても亦不敬なる所以を主張し、互に論難して屈することなかりき。時に御用部屋人見吉左衞門、侯の意を受けて上席に就き告げて曰く、『雖縲絏之中其罪也。以其子之。』といふことあり。先に十村等の獄に投ぜられしは施政の目的を遂行するの手段たりしに過ぎずして、彼等の罪科を犯しゝ爲にあらず。されば今復彼等を任用するも毫も妨あることなきにあらずやと。是を以て長甲斐守連愛は直に命を奉じ、他の老臣亦之に倣ひ、これが結果として三月十五日彼等を歸役せしめ、舊習を改めて勵精職に盡くすべきを諭せり。七月無組御扶持人十村御扶持人十村惣年寄といひ、平十村年寄並と稱し、惣年寄年寄並農民を支配するものにあらずして、農民郡奉行に直屬するの制を採り、以て天保十年復元の時に及べり。或は曰く、齊廣這次改革の擧の失敗に終りたるに懲り、十村の名をだに聞くを厭ふに至れり。是を以てこの事ありしなりと。新十村就職中の實情に關しては、流刑に處せられたるものゝ一人越中礪波郡内島村の小豐次[五十嵐 篤好]が、後にの當局より聞き得たる所なりとて書き殘せる嗽雪の記といふものありて、最も信を置くに足る。

 扨又十村代り人々は、井波町(礪波郡)彦六等算用聞より經上り新田裁許に相成居候人々等、或は口郡(羽咋郡)小川村孫右衞門と申藪醫者十村仰付坊主あたまにごだい付に而御役所え出、こじり・青傘に而出あるき、其外御扶持人に成候人々も有之。御嚴政と申名目に而、其中御次え被召出御内御用承候人々、新川郡三ヶ村善兵衞等三人、御内御用と黄漆に而書付いたし候手こうり(行李)を爲持、あけて何を出すと見れば薄墨半紙一卷而已なり。實に狂言抔之心地。又御改作御奉行所御郡方植付御見分に御廻り之節、領案内いたし候肝煎脚白之不開作者なりとて引倒し、水田之中え御踏込被成候。御泊所石川郡十村の宅にては、ヶ樣之奇麗成座敷には難居とて、臺所之板之間に御居り被成候抔狂人之如くに候。新扶持人田中村(礪波郡カ)彌右衞門等植付之頃見廻り、早乙女等紅き下紐いたし候とて見咎、其座にてぬぎとらせ、親々を始村役人不屆也とて咎を申付候。ヶ樣之事共擧てかぞへがたし。
〔嗽雪の記〕