石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第三節 風教作振

治脩の施治は、その初より孝義旌表して風教を維新せんとするに在りき。されば此の時に當りて赤尾本平の復讎事件ありしものは寧ろ當然といふべし。本平は藩士小川直右衞門の足輕丹右衞門の次子にして、兄を宗之助といひ、飯田某に養はれて弓手の徒士なりき。初め丹右衞門は中年にして妻を喪ひしが、劇職に在りて二子を養育する能はざりしを以て、彼等を携へて主家の長屋に寓し、己の家は之を與力堀長太夫といふ者に賃貸せり。然るに長太夫は、未だ曾て一たびもその直を償はず、屋宇亦敗壞するも棄てゝ顧みざりしかば、丹右衞門大に怒り、則ち促して去らしめんと欲せしも、長太夫は之を肯んぜざりき。因りて明和五年丹右衞門は長太夫を訪ひて詰りしに、長太夫は傲然として他を言へり。丹右衞門遂に積忿に堪へず、刀を拔きて撃ちしに、長太夫の弟直右衞門は趨り來り、兄を輔けて力鬪し、遂に丹右衞門を殪せり。時に本平年十五なりしが、痛哭忿怨して以爲らく、彼は實に倶に天を戴くべからざるものなり。然れども今我尚孱弱なるを以て、若し相鬪ひて却りて敗を取らば何の益かあらんと。是より潛心刀法を練磨せしに、長太夫は稍その情を知り、身を警むること甚だ嚴なりき。本平の友人嘗て江戸より歸り、一握の土塊を與へて曰く、これ荒神の社祠の物なり。昔曾我兄弟工藤祐經を殺して父の仇を報ぜしに、後人之を義なりとし、祠を立てゝ彼等を祭れり。世に傳ふ、人のその仇を窺ふ者、常にこの土塊を懷にすれば、則ち素志を貫くを得べしと。是を以て我窃かに汝の爲に齎し來ると。本平謝して之を受けしも、甚だ喜色を顯さざりしかば、その人失望して去れり。又一日卯辰山寺院法會を催しゝ時、本平説法の僧に質して曰く、人その親の爲に仇を報じて身死し家亡ぶる者と、己の怨を慝して永く親の祀を奉ずる者と、執れか孝の至れるものとすべきやと。僧應へて曰く、この事最も説き難し。夫れ仇を報ずるは、既に我が志を逞しくする者にして、彼亦我を讎とせば、則ち彼我同じく修羅道に苦しまざるべからず。如かず死者の爲に能く冥福を修め、是に由りて死者をして天堂に生れて種々の快樂を得しめんにはと。本平その理に服すとせり。後長太夫之を聞きて毀訾して曰く、怯なるかな豎子、夫れ事は密なるを以て成り、謀は泄るゝによりて敗る。彼れ眞にその心に疑ふ所を以て人に詢らんと欲せば、奚ぞ衆人稠坐の中に於いてせんや。蓋し彼之によりて己の怯を掩ひ、以て人口を杜絶せんとするものにして、亦恐るゝに足らざるなりと。是より長太夫は戒を解きて稍寛にせり。然るに安永七年、丹右衞門の死を距ること十一年に及び、七月十五日はその忌辰に當りしかば、本平は爲に厚く供養し、日を擇びて將に仇を報ぜんことを期したりき。越えて九月十五日本平黎明に起き、短褐を襲ね脚袢を穿ちて山に入るの行裝を爲し、小立野新坂に至りて長太夫の門を叩き、その婢に謂ひて曰く、我今日汝の主人と採簟を約す、是を以て來れるなりと。婢乃ち之を報ぜんとして家に入るや、本平直に遺躡して状を窺ひしに、長太夫は婢の言を聞きて怪訝に堪へざるものゝ如くなりき。本平因りて急にその室に進み、聲を擧げて曰く、我は是赤尾丹右衞門の子なり。汝我が父を虐せしを忘れざるべく、我今汝に仇を報ぜんとすと。長太夫蹶起せんとせしに、本平は長太夫の上に跨り、被を去りて刀を刺し、遂に喉を斷ちて命を奪へり。本平時に年二十五。後失踪して往く所を知らず。兄宗之助之を聞き、本平と事を共にせざりしことを愧ぢ、明旦國老前田孝友の邸前に至りて自盡せり。