石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第三節 風教作振

同年孝子池田市右衞門もまた旌表せらる。市右衞門は元來大聖寺藩足輕窪田卯兵衞の子なりしが、小松城鐵炮足輕池田平右衞門の嗣となりしものなり。市右衞門幼より學に志し、長ずるに及びて躬を率ゆる極めて謹嚴、義父に事へて至孝の名ありき。平右衞門致仕の後薙髮して了山と號し、邑の妙圓寺に入りて隱棲せり。是に於いて市右衞門は、公事の餘暇飮食を調へて歡を買ひ、外に在りて珍糕嘉果を得る時は必ず趨りて之を了山に饋れり。一日市右衞門公務を以て安宅に往きしに、この日風雨特に激しかりしかば、鄰人市右衞門の獨居して之を迎ふる者なきを憐み、脚湯を温めてその歸るを待ちたりき。既にして市右衞門は家に歸りしが、未だ草鞋を脱するの暇なく直に往きて了山の安を訪はんとせり。鄰人曰く、今日天候穩ならず、疲憊必ず甚だしかりしならん。宜しく先づ足を洗ひて父を訪ふべしと。市右衞門謝して曰く、風雨未だ歇まず、我老親を念ふこと特に深きものありと。則ち走せて妙圓寺に赴けり。是を以て了山の他に會するや、必ず先づ市右衞門が奉養の厚きを語りて之を悦べり。既にして今年四月了山疾を得しかば、市右衞門は晝夜その側を離れず、起臥を扶け藥餌を供せしが、了山の竟に癒えずして歿するに及び、市右衞門の哀痛慟哭類を絶し、郷里皆爲に悲しめり。事聞し、米五苞を加俸せらる。