石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第二節 財政逼迫

重教、近臣御馬廻組富田彦左衞門好禮・池田忠左衞門正信二人を重用す。而して石川郡粟の豪富木屋藤右衞門は、藩の財政を助けたりとの理由により、天明四年六月二十八日近江今津領なる今津甚右衞門と同格の取扱となり、苗字を粟崎と稱し、双刀を帶するを許されしものなるが、彦左衞門等に請託して盛に利を貪り、窮民の害を爲しゝかば、老臣以下奉行等大に之を憤れるもまた如何ともすること能はず。諸士にして彦左衞門等に忤ひ、或は罪を獲て放逐せられ、或は秩祿を減ぜらるゝもの、五十餘人の多きに及びたりき。五年九月二十九日奧村主水隆振も亦その秩祿一萬二千石中の二千石を除きて逼塞を命ぜられ、十一月廿九日能登島流謫の宣告を受く。蓋し隆振權威に倚藉し、一族中の子弟にして狂暴なりしが爲禁錮せられたるものを、恣に釋放したるに依ると稱せられしも、老臣にして此の如き重刑に處せられたるものは前代未だ曾てその例を見ず。是を以て上下皆目を聳てたりといふ。是より先同年八月彦左衞門・忠左衞門二人は改作奉行・御勝手方御用に任じ、十二月彦左衞門は祿八百石を増して二千石となり、忠左衞門は三百石を増して六百石を食み、共に物頭並を以て待遇せらる。然るに六年六月重教卒せしかば、彼等は忽ち失脚し、忠左衞門は八月二十一日金澤に於いて、彦左衞門は同月廿七日大阪に於いて捕へられ、七年四月二人共に越中に流謫の宣言を受けしが、忠左衞門は未だ發せずして獄死せり。藤右衞門も八月廿八日その父貞悦と共に捕へらる。後寛政二年三月治脩奧村隆振赦免し、翌三年三月藤右衞門も亦容されしが、貞悦は是より先天明七年九月廿一日獄中に命を殞せり。但し木屋の財産は之によりて覆さるゝことなく、享和二年三月封内に對して三千二百餘貫目の用銀を課したる時にも、木屋は單獨にて三百貫目を負擔し、領國中第一の分限たりしを見る。而して彦左衞門が赦免を得たるは文政四年に在り。

 泰雲院(重教)殿御隱居まし〱ながら再び御政務にて、戸(富)田彦左衞門・池田忠左衞門國政を司り、一國虎の尾を踏が如くおそれける。戸田・池田毎度の加増して、太梁院(治脩)殿老中諸役人は有てなきが如し。戸田彦左衞門大坂え登りし留守中惡事露顯の由にて、大勢捕手の人數向ひ、網乘物にて歸國。池田・戸田とも流刑也。
〔螢 の 光〕
       ○

 天明六年八月廿八日粟崎藤右衞門・同人父貞悦、商方に付不筋之取組有之、京都町人井川善助えも取入、彼是不屆有之に付牢舍申付、家財取揚、並商方之品縮方可詮議旨、御用番土佐守(前田直方)殿より改方松尾縫殿え被仰渡。依之改方小頭等指遣、家内闕所、諸道具等に縮申付、書き物取揚。右父子召出禁牢申付、十月十三日公事場え引渡。
 寛政三年三月十七日左之通。
  出牢仰付、同十九日家財之土藏開封被渡下。        粟崎藤右衞門
 右藤右衞門親隱居貞悦も禁牢仰付置候處牢死。且又藤右衞門え被下置候御扶持は、一昨十七日於公事場召放
〔政鄰記〕