石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第二節 財政逼迫

重教が隱棲の後再び國政を監するに至りたるは、その表面の理由藩の財政窮乏の極に達したるを以て之を整理するに在りたりといへども、この時令侯治脩の齡已に四十一歳なりしが故に、特に重教の力を假るの必要を認むること能はず。思ふに重教は、政務意の如くならずして一旦國を讓りたりといへども、治脩より長ずること僅かに四歳なりしかば、流石に欝勃たる客氣抑へんとして抑ふる能はざるものあり。致仕の後屢鷹を能美郡に放ち、その休憩所とする寺井村の十村伊右衞門の家を自ら指揮して改造せしめ、伊右衞門の藏せる花車を圖せる金屏を愛して之を徴發し、庭園の躑躅及び茶樹の大なるを喜びて金谷殿に移さしめ、梯村の沿道なる奇松も亦同じく移植せしめたるが如き、その行動の頗る奔放なりしもの以て此の間の消息を解すべく、而して治脩は初め僧となりしを還俗し、兄の恩によりて封を承けしものなるが故に、特に屈從せざるべからざる事情ありしものゝ如し。されば重教の再び廳に臨むや、庶政一にその手に決し、治脩は有れども無きが如く、而も治績の決して擧るを見る能はざりき。重教の擧動稍常軌を逸するものありしは、亦これを安永四年十一月槻尾甚太夫が在江戸の知人に與へたる消息に據りて窺ふべく、重教治脩を遇すること嶮惡にして、遂に治脩をしてその飮食に注意せしむるに至れる事情は、之を末より明治に亙れる人石黒魚淵が家傳によりて察すべきなり。

 中將重教)樣毎日々々御鷹野御出、町家に御休被遊候節は御通筋御宿詰も御座候。四人共に懸廻り、一向に食事も忘れ申程の事に御座候。一日の中に兩度御出之儀も御座候。御休所より俄に被仰出、終日御鷹野も御座候。左樣之節は御供人中御賄、急に支配我々に申付候事も御座候。手に汗にぎり續申事而已に御座候。犀川油車町室屋次右衞門と申方え不斗御休所被仰出、此間川狩の節もいつも〱此者方え被入候。大樋町端にも御休被遊候。淺野川末釜屋彌吉方えも御休、並に宮腰口町端茶屋えも御休、犀川之上覺源寺え茂此間兩三度御休被遊候。覺源寺と室屋次右衞門方とえは御膳所も相立、朝晝御膳も被召上候故、私共も言外(コトノ)氣を張申候。扨々烈敷事に御座候。
〔槻尾甚太夫手集〕
       ○

 孫(堀)左衞門と云ふは、幼年の頃太梁院(治脩)樣御側に勤め、其後御馬廻頭・御算用場奉行をも勤めたる人に而、此人咄しに、兩君共(重教治脩)に御的遊ばしたる時、如何せしか泰雲院(重教)樣の御矢取り不在合、太梁院樣之御矢取り小坊主、太梁院樣の御矢のみ拾ひ指上たるに、忽泰雲院樣御神色變じ、御脇指に手かゝり既に御手打と見えたるを、太梁院樣何の御詞もなく、其矢を以小坊主をひた叩きに打伏せ玉ひたれば、泰雲院樣御神色も定り、坊主も何の事もなく濟みたる由、孫左衞門したしく見たる咄し也。其他泰雲院樣時々御側之人を以、唯何となく太梁院樣之御動靜を窺はせらるゝは日々の事なる由、是も孫左衞門の咄也。私祖父嘉左衞門(石黒魚淵宗家)は、日々勤仕に辨當幾つも持參。其辨當は我母歟妻より外に更に手懸させず、誠に大事にせし由。是は太梁院樣密に召上りたる旨也。則辨當仕立たる處とて、けしからぬ處に板敷の間ありたり。辨營も有りたり。是は孫左衞門咄しより心付き追々探索せしに、五十二祖母(嘉左衞門曾孫)の咄し致せし也。元來太梁院樣越中に被在候を指置き、泰雲院樣徳川家より御養子遊ばされんとせし時、御家臣不服之者多く、其砌金岩嘉太夫抔申す者は、鑓を提げ、徳川の御養子若し御越しあらば越中えは入れさせまじとて、境まで出懸たると申すこと、則今の金岩より聞きたり。
〔石黒魚淵手記〕