石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第二節 財政逼迫

上述の如く重教の時には財政甚だ困難を極めしも之が整理を爲すことを得ざりしが、侯は多疾にして鋭意政務を視ること能はざりしのみならず、齡已に二十七歳に達して繼嗣なかりしかば、明和四年將軍の子を養ひて領國を讓らんとの志ありしに、有澤才右衞門貞幹・永原勘左衞門孝章等旨を承けて之を翼し、小臣の富貴を圖り榮達を希ふ者亦之に附和し、詭辯を弄してその目的を遂行せんとせり。是に於いて衆論囂々として起り、貞幹等を得て甘心せんと欲し、且つ重教の後にはその弟僧闡眞を推さざるべからざることを主張するもの多かりき。蓋し事のこゝに至りしは、去年重教の弟利實の逝去するや、老臣重教に繼嗣を定むるの議を上りしが、偶將軍の子を養はんとの意見を有するものありて、重教も亦之に從はんとしたるに由るなり。既にして老臣等物議の沸騰せるを聞きて大に驚き、重教に哀訴してこの決意を飜さしめ、翌五年十二月終に闡眞を迎へて相續者たらしむることゝせり。闡眞は吉徳の八男にして、寳暦六年閏十一月越中勝興寺に移り、十一年三月西本願寺にて得度せるものなり。重教の闡眞を立てゝ嗣たらしめんとするや、闡眞屢之を辭したりしも許されず、遂に還俗して諱を利有といへり。後に治脩と改めたるもの即ち是なり。