石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第一節 大槻騷動

稗史に於いてはまた、宗辰卒去江戸邸内にて毒殺せられたるなりとし、或は姻戚佐竹氏を訪ひたるにその婢が毒を混じたる煙草を勸めしによるとなせども、皆架空の談に過ぎずして、佐竹氏の如きは固より當時未だ近親にあらざりしなり。宗辰は初め延享三年十一月廿四日その痼疾たりし痰を患ひ、水を吐きて氣絶せしが、療養を加へたる結果一且恢復せしを以て、十二月三日下谷廣徳寺に詣でゝ夫人法會を營み、同月六日には好晴に乘じて調馬を試みしに、七日朝より咯痰し、八日午後卒去、十二日朝に至りて發喪せしなり。かくの如く病状稍普通と異なり、施政亦僅かに一年半に過ぎざりしを以て、坊間或はその死因を當時金澤に於いて蟄居中なりし大槻朝元一派の陰謀によると解せしものなきにあらざりしが如く、大野木克寛日記にも寛延元年七月十九日の條に、是より先本郷邸に於いて置毒の陰謀發覺したるごとを述べたる後、『先君大應公(宗辰)御病症何とやらんあやしく、其節も區々に取沙汰も有之候處、今度之惡逆之儀に而考之候へば、是亦右之仁(眞如院)可所爲歟と衆人申之。然者御微運之程今更奉惜所也。』といへり。

 延享三年十二月七日曉より、中將宗辰)樣前月廿七日記之通御腹痛、八十島貞庵・久保壽庵奉診。大津長悦も初て奉診、御ひねり被仰付。大高保竹及東元も奉診、示談、御藥劑度々替指上候處、御痰水少々宛再々御吐、夜八時頃一升餘も御吐。
 八日六半頃強御痰。横井元泰診、御大切之旨に而御藥指上、獨參湯も上之。橘宗仙院晝頃御診、重き事に而は無御座旨御申。御丸藥煎湯も被之。林玄潤も奉診。然處七時頃御大切之御樣子に付、御一門樣御醫師衆へも早乘御使を以被仰遣、追々御出。
 一、御病躰御差重に付、御容躰被相尋候旁(方々)可申入趣、左之通申述候樣御次より申談。
  先月下旬より寒熱差引有之、痢合も不宜候處、手醫師藥に而段々に快方に罷有候。然所今曉より腹痛痰氣、病症輕躰に相見え候付、橘宗仙院初御醫師申遣候。藥今朝一貼に人參三分、五匁獨參湯。食事は今朝少々湯漬食給被申候。
 九日、今日左之通御次より申談。
 昨夜以來同篇之内次第に不相勝、食事も一向給不申候。武田叔安老御療治に而、煎湯共一貼に人參五分宛、外參附場も用申候。
 十日、今日より村田長安老御療養に被轉。
 一、御容躰書左之通り、御次より申談。
  加賀守病躰同篇之内、次第不宜候に付、今晝より村田長安老御藥に轉申候。壹貼人參五分宛、參附湯此間之通用申候。食餌は書載候程之儀に無御座候。
 十一日、今日御容躰書左之通。
  加賀守病躰、昨夜以來相替儀無御座、次第に大切之躰に御座候。藥は村田長安老御調合、參附場此間之通用申候。
 十二日、御養生不御叶、卯之刻御逝去
〔政鄰記〕

前田宗辰畫像 侯爵前田利爲氏藏