石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第一節 大槻騷動

この際朝元が何等かの陰謀を行ひたりとの風説が、或る一部分に行はれたりしことは、前田直躬の記したる言誑集の跋にも、『延享二年御歸國の比、御道中より御滯、御快氣も被遊たる上には如何可仰付旨難計程の御事侍、』と記せるを以て知るべし。然れども吉徳が這次の歸國は、同年四月廿一日に江戸を發し、越後に至りて豪雨洪水に會したりしが故に、五月廿六日金澤に著したるにて、日を費すこと十五日、之を普通行程に比するに二日を遲延し、その間身體に浮腫を發したるが、歸城の日には尚馬に乘じて大式臺に著し、儀禮作法一も常例に異ならざりしといへば、未だ甚だしく病勢の漸むに至らず。又六月辻祐安の診察したる時にも、『小水短少腫脹漸甚』とありて、決して溺水に基づくの症状にあらざるを見るべし。而してその發病以後の經過が政鄰記に詳述せられたるに併せ考ふれば、朝元の陰謀説が何等の根據なき道聽途説たりしを斷ずべきなり。

 延享二年四月廿一日江戸御發駕、御供揃六時過に而、同列過大御門より御發駕。御作法前々の通。御家老御供前田大學。西尾隼人は、此度但馬守前田重凞)樣御同道、御人數多に候故、御發駕並金澤御着之節迄御供、其外は一宿御跡より罷越候樣被仰出、御中邸・御下邸に御立寄。但馬守樣にも大御式臺より御發駕に而、御中屋敷・御下屋敷御立寄、御供揃等御前御同事。御泊等は、小に而指支候處は御別泊、不指支所は御同に御泊。御晝・御中休は折々御別に而、多分御一所也。
 御道中洪水、越後鍛冶屋敷三日、魚川に二日御逗留。并松代へも御廻り有之。
 五月六日朝五時御歸城。但一昨四日御着之御圖りに候處、前記之通御逗蟹に付今日御着也。御例之通御馬に被召、御大式臺より被入、御熨斗三方配膳役磯松三郎左衞門上之。都而御作法前々之通に付略之。(中略)。但馬守樣には、九時前直に金谷御殿に御着、暫有之御登城被成候樣被仰出。同半時前松坂通御大式臺より御上り、御先立御近習頭にて、鷲之御杉戸・松之間通り、御居間書院二之間に御溜。御登城之段達御間候處、御居間え御出被成候樣大槻内藏允を以被仰達、於御居間御對顏。御熨斗三方、配膳役三郎左衞門上之。追付御奧え御通り被成候。云々。
 十五日出仕之面々登城之處、少々御不快被御座候故、御目見不仰付候由、月番横山大和守(貴林)演述、何茂退出。
 相公樣御族中より御浮腫被御座御不快に付、御着城翌七日池田玄眞・林玄潤・南保玄伯并小宮山了意え診被仰付、玄潤御藥上之。御道中に而は玄伯御藥上之候。久保壽安、御道中以來毎日御鍼上之。右何も診被仰付
 十八日中村正伯・佐々伯順・小宮山全柳診被仰付。此以後伯順も毎日奉診。今日より玄順、人參壹分入御藥上之。十九日七厘入。廿日一分入。同夜より御七は定泊、玄眞・玄伯・伯順三人として一人宛泊番勤之。廿一日より人參二分入。廿二日より玄眞御七仕、人參三分入上之。是以後玄眞定泊、玄潤は玄伯・伯順に加り、一人宛代々泊。壽安者毎日御針之處、十八日より毎日兩度宛御針仕。
 廿五日能勢玄達、并大和守醫岩脇碩庵、安房守本多政昌)醫原田玄格、町醫小林意仙・奧田宗安え診被仰付。今日より玄眞、人參五分入御藥上之。廿六日夕方より三分入、廿七日は二分入上之。
 廿七日より伯順は七、人參不入上之。外にキンキ順氣丸上之。今夜より伯順定泊等如前。
 廿八日より玄眞・玄潤・玄伯・玄達・全柳六人として、二人宛晝夜相詰。
 一、今日江戸表え以飛脚、大高東元早速參候樣、大槻内藏允・遠田勘右衞門より青木新兵衞まで申遣。
 一、今日年寄中より京都詰人へ早飛脚を以、在醫師之内山脇道作・生駒玄説・辻祐安三人之内一人宛越候樣可致旨申遺。
 廿八日夜前より、毎朝夕年寄中・御家老役一人宛伺御機嫌之趣にて罷出。久保壽安今夜より定泊。
 廿九日晝より小宮了意指圖に而同全柳御七仕、人參壹分五厘入御藥上之。依之全柳定泊等如前。
 晦日宗辰公え容躰被仰進候。御使御表小將神保五郎え、内藏允・勘右衞門取計に而申渡。御目六を以白十枚、御内々よりも同段拜領。今夜早打に而發出。但六月十一日歸。
 六月朔日出仕之面々え年寄中被謁、御不快に付御出不遊段、月番對馬守(前田孝資)殿演述。依之伺御機嫌退出之事。
 三日小林意仙再診、奧田宗安初而診被仰付。今日より五日まで毎日御針被仰付
 三日京都町醫辻法眼祐安到著、町宿に被指置。旅宿にて今日并歸發之節は、弟子當地町醫渡邊道順相伴に而、二汁五菜御料理・御茶後菓子迄被之。逗留之内は、一汁五菜之御料理被之。登城之度に旅中同道罷在候御算用者并右道順指副、大御式臺より罷上り、町同心出向、御大小將致誘引候而虎之御間え通し、町奉行挨拶。其後政所(二條吉忠室)樣附物頭並服部五郎左衞門、知る人に候故挨拶に出。夫より瀧之間に而年寄挨拶。畢而於矢天井之間、池田玄眞・中村正伯御容躰申演候。以後御居間書院廊下迄五郎左衞門誘引、同所御廊下え御近習頭出向有之、御居間書院え通し置、追付遠田勘右衞門誘引に而御前え召、診被仰付、相濟重而御居間え相通し、御醫師中不殘、大槻内藏允も罷出、御客躰考之、樣子承之。其節茶・たばこ盆、坊主給事に而出之。其後於瀧之間年寄中御客躰等被之。於矢天井之間、玄眞相伴に而御菓子等被之。町奉行を以醫按上之。左之通。
  加州宰相大君。從孟夏中夏。連綿不痊。小水短少。腫脹漸甚。診其脈。左微弦而无力。右似洪滑良帶数文。垣孫子所謂。是脾腹乎。靈樞有六腑之脹。此症頗是爲脾脹可哉。僕雖固辭免。不已投一方
   平 胃 散   加猪苓・澤瀉・蘇莖・大服皮
  管見如斯。良工幸質。              辻法眼祐安 謹識
 四日辻祐安登城、加減平胃散一貼、調合上之。但診等之御作法都而如昨日也。調合相見御近習頭、御藥は御三方に載之、配膳役持參、御近習頭指添上之。於御居間書院調合也。尤御醫師中も其席え出有之。御藥臺は坊主指出。昨日之通祐安え茶・たばこ盆、坊主給事に而出之。此以後登城之度に同斷。於矢天井之間御蒐子・麺類之内等被之、玄眞・正伯挨拶
 右調合之御藥は不召上候。此間之通、小宮山了意指圖に而同全柳調藥、被上之也。
 一、祐安、右調藥の外に、御臍に被張候得ば御通じ有之藥之由にて、於矢天井之間認上之。御張方は能勢玄達承上之。
 五日辻祐安登城、御藥一貼上之。
 一、奧田宗傳致之候處、町奉行より呼に遣し、今日歸著。則診被仰付、御鍼上之。御療藥存寄無之旨申上候に付、此後不召候。奧田宗安も今日より診等不仰付候。
 同夕、祐安え診被仰付候處、御大切至極与奉存候由にて、御藥上候儀御断申上候得共、強而調合申談、一貼調合上之。
 一、今夜より全柳、人參二分入之、御藥上之。
 同夜從宗辰、相公樣御容躰爲御窺、御附大小將御番頭並杉江助四郎被遣。當二日晝九時江戸發、今夜九時到着、直に御次え出、御口上御近習頭三輪藤兵衞取次達御聽候處、助四郎え御意被仰出、則申聞候。御進物之品々、龍眼肉・糟附(漬)鮑一桶・御目録、右御品はいまだ到來不仕候。但馬守樣初御口上、并年寄中・御家老中・若年寄中遠田勘右衞門・大槻内藏允・御近習頭中・御醫師にも御意之趣有之。翌六日夫々勤之。但助四郎江戸表發出前、判金一枚・御羽織一被之。重而宗辰公御前え被召出、判金二枚・御帷子被之。
 六日八時前、大槻内藏允誘引に而助四郎御前え被召出、預玄院(吉徳生母)樣・佐渡守(宗辰)樣初え、先御替も無御座今日之御容躰与御意有之。退候處、於御次遠田勘右衞門を以御返答被仰出、助四郎に判金一枚・羽織一被之。夕方發、又早打に而江戸え歸。
 一、大高東元江戸え呼に被遣候處、今晝著。直に診被仰付候處、御重き御病躰与申上、存寄候付クカウ(肉杞)圓と申丸藥調合仕、今夜より上之。煎湯も指上候樣御意に付、ソウケン湯に人參一分入上之。煎湯に指上候御藥いまだ考付不申候得共、御意に付先右之御藥指上候由申聞候事。
 七日辻祐安儀今日御暇被之候に付、旅宿え御使御使番和田源左衞門を以、白百五十枚・八講布五疋・串海鼠一籠被之。祐安翌八日發足歸
 一、宗辰公え、相公樣大高東元御藥被召上候以後之御容躰可申上、御使御馬廻組恒川清右衞門え今日月番對馬守殿被申渡。白十枚拜領、翌八日早打にて發出。
 一、相公樣御所勞伺、頭分以上月番御宅え常服に而相勤。
 一、今日東元、御食可進御爲とて、大安丸と申丸藥上之。夜より御煎湯には人參三分入上之。壽安御鍼、今日より度々上之。
 八日朝東元振出粉藥上之。御煎湯も加減、人參不入に上之。此後又人參を加、又去。樣々に仕上、暫時宛に色々御藥轉方上之。
 同夜九時、從宗辰御使御馬廻組御抱守加人伊藤津兵衞被遣。當五日曉天江戸發、右刻限著。御進物有之候得共不到着。相公樣就御所勞消除被行候由にて、御札被之。山崎次郎兵衞御手傳仕之由。津兵衞發出前白十枚、御内々金十兩被之由。但馬守樣初御口上、并年寄中にも御意有之。御答以後、津兵衞に白十枚被之。翌九日晝過發出、江戸え歸。
 十日從政所(二條吉忠室)樣相公樣御見廻御使河内山仲太夫、當七日發、今晝到著。
 同日夕方年寄中・御家老中等、不殘爲御機嫌登城。
 十一日、前月晦日發之神保權五郎、今月四日八時過江戸著、宗辰公初え之御使勤之。白五枚。從御新造樣御たばこ入拜領。五日夕方江戸發、千曲・犀川滿水。福島に七日夜より九日朝迄逗留、今朝五時過歸著。
 一、今日江戸造酒丞(大聖寺侯利道)樣・出雲守(富山侯利幸)樣より、爲御見廻早打御使物頭到著。同夜大和守、誘引大槻内藏允に而、御居間え被召出
 十二日曉但馬守(重凞)樣・嘉三郎(重靖)樣、御前え御出。尤是迄毎日度々御兩樣共御出也。
 同日朝五時前、大和守・安房守・對馬守・助右衞門(奧村修古)一所に、遠田勘右衞門誘引に而御居間え被召出
 一、左之通、表向頭分以上え御觸有之。
  相公樣御氣御指重り被成、御大切之御樣子候條、今日七時登城可御機嫌候。以上。
    六月十二日(延保二年)                        前田對馬守
 右之御樣子、諸組にも頭々より相觸之
 一、右御樣子に付、今日宗辰公え御案内之御使、早打御大小將成田幸右衞門今晝從御城直に發出、白十枚拜領。
 右に付御醫師御願も可成哉と、年寄中より申上候。御使御大小將村田判左衞門、同比過右同斷。
 同日未之刻相公樣御逝去、御享年五十六。但今曉寅之上刻御逝去に候得共、江戸表之御首尾御都合有之に付、御隱密に而夕七時過御披め有之。
〔政鄰記〕