石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第一節 大槻騷動


 一、當正月二十二日(寛保二年)、大槻内藏允五百石御加増下、都合二千八百石餘に被仰付候。此者御先代以來掃除坊主に而、大槻長元(朝)と稱し候。御居間坊主に成候處、男色の御寵愛より稍出頭し、束髮の後傳藏と改稱し候。御徒組え入、夫より新番に移り、無程御大小將組に入、遂に御使番並に成、物頭並より去々年組頭並、夫より人持組に被命候。日夜御側に相勤、御寵遇重過し、去年以來は於御國も御政務に預候。御家老之前田大學は、父修理以來縁者と成、玉井市正は佞諛を以取入是も羽翼と成、御數寄の儉約を事とす。去秋御歸國以後は、一向此事のみに心力を御用候。大坂表近年の御借銀方、微妙公(利常)以來の古格舊例は透(スキ)と止之、笠間安右衞門工夫を以、毎日十石宛之米切手御印紙を以賣出す。是を以御借用の手立とす。凡十八九年の内、御借銀高二萬貫目に及候。今年に至り此御返濟之筋奉行年寄衆中僉議之趣は、御返濟の方えは現米二萬石振向置候て、其上諸事屹と御儉約の道を立、其筋々圖り立達御聽候處、夫は御用無之、專笠間御内々を以申上候趣を以、大槻一人の意得を以取唀候。依之獅子之御土藏へ手を付、微妙公の御時に他國扶持方用銀と包紙に爲御記置候朱封銀をも、大半に爲御取出候而大坂表え被遣候。[松雲公は在位八十年之 内終に御出不遊候。]御國内にては乾屋孫兵衞といふ者、大槻が宅邊に居住の町人之爲吹替候。凡此は至而精にして、常時通用よりは一倍の好也。高徳(利家)公以來被建置候大(オホガネ)奉行三人之外は、御横目といへども此御藏へは入事不罷成御定に而、御用有之時は定番頭主付にて出納申談候事に付、去々年迄は遠田勘右衞門一人其趣を以勤來候處、去年御歸國以後は勘右衞門えは一度も不仰付、悉皆大槻一人主付、其下え組外御番頭長瀬五郎右衞門一人金出納被仰付候。是は松雲公御代御横目之時相勤、其事存知候者故相加申事に候。改作奉行之内山傳左衞門と申者、大槻宅同町に而内々心安申通候故にても候哉、此者一人相加り勤之候。然處稻垣與三右衞門・戸田與一郎及言上候は、御代々御定に而、金の封印等相勤候事は、銀座の者共より外は手指(テザシ)難成事に御座候。乾屋孫兵衞相勤候ては御大法に相背申趣申上、依之乾屋は被之候。
 一、右之者御寵遇之餘、御廣式大奧えも被召連候。年寄女中宮崎は、從御先代相勤、近年致病死候。及末期候時同輩之女中え申置候は、大槻被召使候樣子何とも合點不參候。我等相果候以後に、此言葉可思合候。畢竟は只事有之間敷候。禍ひ起り可申旨申候。去酉四月(寛保元年)清姫樣安藝の世子伊勢守(淺野宗恒)樣え御嫁娶之後、爲御見舞内藏允被遣候處、御前え罷出、其上御庭え御供に罷出候時、御前樣御手を引候旨。此儀安藝守(淺野吉長)樣・伊勢守樣御聞被成、宰相(吉徳)樣被仰付樣甚思召に不相叶、御噂不宜候由也。又夜中泊番被仰付、泊番の頃は大奧え此者一人被召連、御床も一所に敷並、女子も無構其所え被召候故、穢徳彰聞不聽事。
 一、彼宅え縁者は前田修理前田大學父子、其外一家同事に御意を以罷越候頭分は御小將頭三輪藤兵衞・御持筒足輕頭中村治右衞門・關屋長太夫。平士の内取入て令出入候者共は御右筆大村五郎左衞門・内作事奉行横井平左衞門・改作奉行行山傳左衞門其外笠間源左衞門・池森軍八・會所奉行津田林左衞門等年々數多に及、皆以公上の思召に相叶旨候也。
 一、大組足輕三組・御持方足輕七組、此十組は松雲公久敷御工夫に而新に被命、平生御城番等の御用は不相勤、專弓・鐵炮稽古修練仕候迄に候。然處今年御城内三ヶ所勤番、并朔望佳節等橋爪御門等警固相勤候。ヶ樣に候へば兩役之稽古折節に罷成候故、玉藥以下自然と減少いたし、御儉約の一つに罷成候。且割場附足輕老死之者共立替被指止段々減少付、其番所には只今迄御城門勤番定番組足輕を引擧相渡候。新番御歩組以下御切米、地米の外三の二は小松・本吉・寺井三ヶ所御藏米を以被下候處、皆越中を以相渡候。御城内木葉其他塵埃等、御代々掃除小者といふ者數十人有之、其者共御給年中四十目之定め被下候。至而小給に候へども、木葉枯葉并糞舍之糞壤を我物に仕來り、是を以妻子を養育仕候。是又去秋已來御厩方飼葉入の百姓え相渡し、飼葉價を引さげさせ候。如此之族、皆以大槻え出入之小役人共工夫を以言上に及び仕出候由。
 一、江戸月俸之事、微妙公御定に而、小川の中の頭米を以て直段相立被渡下侯處、御儉約之旨にて、表向者御定の趣を以て申渡、實は別段に相圖り月俸減少相渡候。會所奉行も不存候。與力之内より直段聞役と申者兩人[加藤清左衞門 池森軍八]内々を以勤之、減少之樣子を以爲御褒美十枚宛被下候事。將又御在府・御留守共、御用之日傭成次第相止、其代として御家中小者日々御やとひに罷出候。食事不給罷歸候後、一人に鳥目三拾文被下候樣致候。此二ヶ條も皆大槻手下之者共より仕出し候旨也。
 一、去年冬、金澤御城下高畠左門宅の屏腰に町人躰の者を斬殺し置候。右町人は尾張町淺野屋某と申者の手代に候。其日の朝百目を錢買に罷越候者有之、賣渡し則其手代持參候。其路にて斬殺、鳥目奪取申爲躰に候。種々遂吟味候へども不相知候。扨程經て竪町に罷在候浪人奧泉幸七与申者召使候僕、同所の内町人の内より綿衣一盜取候樣子に候得共、不慥候に付疑敷存ずる迄にて打過候。彌疑敷事ども有之候に付、粗取沙汰に及申候。幸七兄奧泉金兵衞は組外(クミハヅレ)二百石被下、長瀬五郎右衞門組に候。此者前々より不法方外者に候得共、嘉三郎(重靖)殿母儀の兄に付、誰も相ひかへ其分に仕置候得共、近年五郎右衞門達御内聽、世間徘徊不仕樣にいたし置候。右幸七僕賊仕候儀紛れ無之躰に付、五郎右衞門より召捕之、高畠木工え相達遂吟味候處に右僕白状不仕候而申候は、是よりも甚大事の賊をいたし、人を殺し候者有之候ても其分に被成候て、却而綿衣一つ見え不申候とて如此御吟味は難心得などゝ口走り候故、承屆候へば、幸七兄奧泉金兵衞所爲之趣明白に申顯候。五郎右衞門も承屆達御内聽候處、御隱密と有之、不披露押込置候事。右金兵衞兄弟共に立花飛騨守(柳川侯貞俶)殿御家來に候處、兩人共平生不屆至極之者に付、其分に難成ほどの事共に候處、嘉三郎殿御袋方於江戸御寵遇にて、則於江戸召出候。其時も既に飛騨守殿にては、合羽一重致所持申躰に而可追放かと申時節に候。其身の一大幸出來、幸七共に立花家を罷出候。(右幸七、寛保二年之春、長瀬五郎右衞門與力に被召出、百石被下候事。)
〔浚新秘策〕
       ○

 一、事不珍趣に御座候得共、大槻事に付、一事可申上品有之、一筆如此御座候。御貸銀與力堀六郎左衞門・佐藤源兵衞え、爲骨折與力裁許明知代官米壹万石之分代官仰付候。此儀大槻奉(ウケタマハリ)之申渡候。六郎左衞門等御算用場え罷出申候は、御代官口米私共受取筋にては無御座候。只今迄は足輕を以下代に仕來、口米與力請取申候。此度は町人之内角間屋惣右衞門・植木屋長助・小松屋左助と申者、三人下代分に罷成、口米殘被下候筈に候由申候。御代々町人より代官之下代相動候儀無之事に候。於御藏本御米納候時分、刀を帶し申者共見居候。右町人共刀御免と申儀可之樣も無之事に候へば、旁御奉行中達而言上も仕、無用仕可然と申輩も有之候處、兵庫・善右衞門兩人存寄に、御格無之筋にても、大槻奉にて申談恨事は皆以御意同事之趣に候へば、御新格与可申候。町人に大小爲帶申筋は、定而其時に至り御月番え相伺譯立申にて可之候。先達而僉議に及候事は不入ものとの料簡に相聞え候。右之趣、私之役筋にては可承樣無御座候。先頃以來前田源兵衞・林源太左衞門有増申聞候て、存念も申述候は、近年大槻權勢次第々々に強く罷成、御代々無之新格出來、御舊例段々破滅仕候。嘆敷事共に候。右一事は就中大切之儀、三人之町人皆大槻家え心安出入仕候。惣左衞門・左助は能囃子の相手、長助は植木草花の取持人にて、大阪までも時々罷越、種々心外之事共都鄙の批判に及候。ヶ樣の者共え代官口米下候事絶言語候。御奉行共より屹度各樣え迄言上も有之候はゞ、御僉議の筋も出來可仕候處、其趣も無御座候。惣而大槻仕形、今般下屋敷被下亭出來仕候而以來は、別而諸人目を驚し舌を卷申事共に候得共、上の思召より出申儀故其所を憚不言上候。御年寄衆之内にも別て諸大夫方には御思慮も可之處、大和守(横山貴林)殿には先年一度遠慮仰付候儀有之候に付、如何樣の事にても御料簡者不仰上思召之旨、兼々承及候。土佐守(前田直躬)殿には、御才發は拔群に相聞え候へども御年若に御座候故、諸役人共未信服候。對馬(前田孝資)殿には萬事御扣目にて、各見聞の通に候。只尊前(本多政昌)樣御一人を頼母敷も存、御奧深く存罷在候。然共御遠慮勝故にも候哉、目に餘り申事共も御詰問も無御座候故、諸役人奉存程には無御座候。此度之一件御僉議の節、若其通などゝ有之候はゞ、最早御先代以來御仕置も此者の爲に滅却可仕候。御前の御憤は一旦の事共可申候。第一御國之爲、御先祖御代々樣御定等は大切至極之儀に御座候處、御定段々破申儀は御笑止千萬之儀に御座候。私事は御筋目も有之、御心安き筈に候。中村典膳は御心安參上も仕候宿老にも候へば、ヶ樣之趣申上不苦事と存候。此節有心諸役人共尊前樣御一人を頼に仕罷在候と申儀を申上間舖哉と、源兵衞發端に申候。典膳申候は、時勢粧と申事を不存候哉、中々其所えは行立申事にては無之旨及挨拶申候。私は此兩人の助言にも不及事に候へども、右之首尾等不承及事兩人申聞候に付、驚入申事に御座候。町人を御代官の下へ入、口米等可下事、たとひ町奉行にて僉議の上を以撰出仕候ても不然筋に候。况や大槻私の念比を以如此事を仕出候事、言語道斷之事無忌憚の至と奉存候。
 一、彼者威權日々加り、驕泰にも罷成候故、歴々の御役人以下耻を不知人々、追從輕薄を以立身のみに心掛、士之風俗甚亂れ申候。就中諸役人之内、御横目役之者共はヶ樣之所に別而心を付、言上仕候にも不限、各樣えは潛に可申上之處、却而六人之御横目各申談、去年以來は彼宅え罷越、互に通達の路を開申候。去年於江戸井口五郎左衞門を御超撰被遊、直に兼役被仰付候而より如此罷成候。但是は子細有之事に御座候。十八九年前より御隱横目と申者數十有人、御徒列・足輕・三十人組・坊主の内より被仰付、皆々口上にて大槻え迄申含達御聽候。依之御横目の類は皆以大槻手下の趣に申成候に付、何も其趣に相心得、追從を專と仕來候。御横目さへ如此罷成候。諸役人の内は不申、下役人之内笠間源左衞門・堀六郎左衞門・小畠彌助・行山清八等之者共は、彼家の鷹犬と相見へ候。其餘御郡より十村百姓、町方より商賣人等群を成してあらぬ事に言を寄せ、御儉約申立町中え運上之儀申渡し、辻口錢と申事に迄も及申候由。國家の大害不之事与奉存候。蠟燭以下之事、其品々は申立候も口惜候故相省申候。
 一、御前之御樣子、最初は彼者御寵遇より事起り、中頃より御信用甚敷罷成、一兩年は御畏憚被遊、思召に不叶事にても、如何の事も彼者次第に被仰付候体に付、御意に依託いたし、諸役人を欺き、私欲を恣に仕体に御座候。御城門の押手形さへも、彼者の手より出候へば、御番人ども内藏允仕事は格別の儀とて往來爲仕候族(ヤカラ)に罷成候。御算用場奉行共さへも右之趣に候へば、御門番人等は咎るに足らず候。此等の趣を以其餘は御推察可遊候。以上。
    十月十七日(寛保三年)                        青地藤太夫(禮幹)
  安房守本多政昌)殿
〔浚新秘策〕