石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第一節 大槻騷動

朝元の失脚するや、世人時事を諷して落首を作るもの多かりしは前に述べたる如くなるが、直躬は後に自ら之を集めて言誑集と題し、卷末に左の文を記せり。是に由りて直躬が如何に朝元を觀察したりしかを見るべし。

 閑隙のあまり庫裏反古を改めしに、此一帖出。延享二乙丑年六月十二日護國公御逝去成し比、世上大槻内藏允事によりて敷言を言出す。其比の年寄中等の事まで書盡し、褒貶の事共其時の慰みものなりし故、少しく志ありて書集めぬ。され共其事も空しく成ぬ。内藏允實者御持弓足輕小頭大槻七左衞門三男にて、眞言宗波著寺小草履取にて奉公いたし、出家に可成趣の處、おぢ大槻長兵衞[御持筒 足輕]聟養子にいたしぬ。夫より掃除坊主に御召出、朝元と申候[朝元と云名室新助被附候よし、元日 に生れたる由にて被附たるとぞ。]護國公御部屋住の節御次坊主加人に參り、夫より御氣然(前)に應じ、御入國後段々御取立の處、御厚恩を忘却いたし我儘を盡し、御年寄らせてより猶更御政事の事をも上を掠て取計、專御廣式向へ取入、不義不行状の事も有之といへ共、上にも聊不知召事にて、御上をも諸人彼是申合ぬ。延享二年御歸國の比、御道中より御滯、御快氣も被遊たる上にば如何可仰付旨難計程の御事侍れ共、御逝去ゆへ此世上の雜言も一向に言出しぬ。内藏允人と成鈍にして淫亂大酒、おのれが權を取て、年寄中とひとしき程にも思召たる風躰にて有ぬ。後世内藏允人と成をも不知、同時の人もすくなき時は、色々に云ならし侍らん。予は時を同じくして其事々をもしり侍る故、あら〱書置きぬ。
〔言誑集跋〕