石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第一節 大槻騷動

延享三年十二月前田宗辰卒し、弟重凞家を嗣ぎしが、翌四年宗辰の一周忌を終るに及び、十二月十八日再び朝元本多政昌の邸に召喚し、奧村助右衞門修古之に列席して、當侯も亦先侯の意を受けて、朝元の食祿を歿收し、蟄居を改めて越中礪波郡五箇山に流し、縮(シマリ)小屋に禁錮すべきを命ぜられたりと告げしに、朝元は何等の抗議を爲すことなく、直にその宣告に服せり。依りて五箇山の縮所竣成するに至るまで假に成瀬内藏助當延の家にすることゝし、監禁室を作りたる後、翌朝縮駕籠を遣りて本多邸より朝元を迎へしめき。當延は人持組に班し、八千石を領するものなり。次いで朝元の家財を闕所を附し、その家族は親類に責附せられ、寛延元年四月十八日朝元金澤より出發せしめて、五箇山の内祖山村に移せり。

 内藏允へ可申渡趣。
 護國院(吉徳)殿御代段々不屆之趣有之、大應院(宗辰)殿思召甚不應候。然共未御三回忌も不相濟事故、先蟄居仰付置候思召に候。於手前(重凞)御同事に存候。依是此度遠島申付候。罪之儀一々に申出候而は、急度不申付候而は不相叶候へども、時節柄之儀に付令宥免、右之通申付候。尤於彼島縮申付候。依之先人持え指預候。
 右之外申渡等之儀、段々以親翰仰出、即日[十二月 十八日]安房守宅において助右衞門(奧村修古)列座申渡候處、奉承知候。
 大應院樣御代被仰渡之時分、私存寄各(朝元)樣迄申上候付、御聞屆被遊御吟味も可仰付哉と奉待候處、御早世被遊候故、迚是に而朽果申儀と覺悟仕罷在候處、御當代(重凞)樣御同意之思召に而遠島被仰付候段、此上何かと可申上樣も無御座畏候由申聞候旨等、御請之留あり。内藏允(朝元)は成瀬内藏助へ御預也。
〔袖裏雜記〕
       ○

 十二月十八日(延享四年)夜本多安房守人持大槻内藏允朝元[三千八百五十石(マヽ) 年四十五]儀、於安房守流刑仰付候旨申渡有之、男女之幼少身近き方え引取、いとこ以上親類不殘指扣被仰付
 前記十二月十八日之、大槻内藏允越中五箇山内え流刑仰付、配所普請出來迄當分人持組成瀬内藏助え御預。即日内藏允え御横目中村新平被之、諸道具闕所仰付。且又内藏允母并子共、夫々一類之者共え相渡之候ヶ所左之通。
  大槻七郎左衞門え     嫡子尚之助・娘よつ
  大槻長太夫え       三男伊三郎(猪)
  大槻長左衞門え      養母惠(實)山院 二男(照)定治郎(榮次郎)
  中村喜三太夫え      實母光凉院(養)
 治部忰深見吉郎え     娘でん、但御先代奉願縁組申合置候。
  庄田舍人え        娘ひさ、但同上。
  前田修理え        娘すぎ
  岡田兵太夫え       娘きよ
 一、内藏允下屋敷家來之居宅は夫々家主え被之、追付取毀候事。
〔政鄰記〕
       ○

 四月十八日(寛延元年)、大槻内藏允儀、去年十二月十八日遠島被仰付、成瀬内藏助え御預置之處、今朝内藏助宅え公事場奉行松平玄蕃・富田織部、場附御横目曁御大小將横目村田吉左衞門・吉田源助、御徒横目罷越五箇山の内祖山村え流刑、縮所に被入置、三人扶持被之旨申渡。御請判形取置、直に發出、途中御歩横目二人・御歩一人・足輕三人・小者二人指添、祖山村迄何も罷越、縮所へ入候迄見屆、廿一日罷歸。右之外御郡奉行も一人罷越。縮所は九尺四方、番人は所之者二人被召抱、三町許脇に番小屋懸り、食事は右番人認之爲給申筈也。
〔政鄰記〕