石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第一節 大槻騷動

元文二年八月朝元組頭並に列し、祿千百八十石を食めり。職制によれば、組頭人持組の次位に列し、而して組頭に准ずるものを組頭並と稱し、側用人・御廣式御肘又は學校督學等の職に在るものゝ階級とす。朝元は初め近習頭にして物頭並たりしもこゝに至りて側用人たりしなり。後四年を經て、寛保元年二月遂に人持組に列して二千三百石の祿を賜ひ、更に三次に千五百石を増して、寛保三年十二月三千八百石の高祿に達せり。朝元の仙石町の邸は、東方三十五間・西方三十間・南北共に三十六間にして、正面は西方に向かひ長屋作りの門を構へ、庭には築山と泉水とを有し、四時の花卉を植ゑ、藩侯の屢之に臨みしことは言ふまでもなく、公子公女も亦來遊せしことあり。この地今第四高等學校の敷地に入る。寛保三年朝元に犀川の南岸千日町に周圍三百三十間の下屋敷を賜ふ。これ食祿三千石以上に及ぶときは下屋敷を有し得る藩制なりしによる。朝元こゝに別邸を興し、實母上田氏を住せしめき。上田氏は法號を惠照院といひしものなり。當時朝元の家族凡べて八人にして、之に從屬するものは給人人・持分十六人・手醫者一人・若黨七人・足輕十四人・仲間小者三十二人・女房下女二十九人・乘馬二疋を算し、その生活頗る豪著を極めたりき。世人の耳目を聳動せしめ、驚嘆となり、羨望となり、遂に嫉視となりしことは、寧ろ人情の當然なりといふべし。今その榮進の跡を表示すれば左の如し。