石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第一節 大槻騷動

享保十九年五月朝元は班を進めて物頭並となり、名を内藏允と改む。時にその領知五百八十石なり。是より先朝元の妻は死したりしを以て、二十年十一月淺井四郎太郎の姊を娶れり。淺井氏が一千石を食める高知の家なりしより考ふれば、これと婚を通ずるに至りたる朝元の勢力が如何に盛なりしかを推知すべし。然るにこの新妻は、元文元年三月十一日吉徳朝元の邸に臨みし日、その夫と爭論し庭前の池水に投身を企てしことあり。是を以て朝元は之を離婚し、更に翌二年前田修理の女を娶りたりき。修理は諱を知頼といひ、家老兼小松城代にして食祿六千石の外に役料三千石を受けしものなり。朝元が華燭の典を擧ぐるに先だち、十一月六日吉徳は郊外大豆田に放鷹し、歸路その邸に赴きて室内裝飾の状を見、朝元の母に謁を賜ひて金百兩を與へ、朝元にも三百兩を贈り、尋いで婚儀の終れる後、同月十五日祝儀として朝元に樽代千疋及び親ら獲たる雁鳬、その母に樽代五百疋、その妻に綿十把を贈り、別に燭臺十本・膳部百人前を賜ひたりき。

 一、辰三月十一日(元文元年)御前(吉徳)には粟ヶ崎邊御鷹野に御出被遊、御歸路之節内藏允宅え御立寄可成候旨中途に而御意有之。内藏允は御先え早々罷歸候。[前々も毎度内藏允宅えは被入候。去冬婚 禮仕候以後は不成候。今日初而也。]御膳等の用意も仕、妻方よりも早々献上の用意も仕候。妻は淺井四郎太郎姊に而、伊崎彦右衞門妻の姊也。多分妻茂御目見可仰付哉と其内證も仕置候。一時計も被御座御歸被遊候。妻は御目見も不仕候。其夜四時に成候得共、内藏允路次之亭に居候而内所え不罷歸候付、老女など申談、煎茶用意亭え迄致持參、則内所かよひ候而爲給(タベ)候所、二三椀に而給不申故、妻は奧え罷歸候。八時に至候得共内所え不罷歸候故、重而酒肴拵亭え持參致候所、内藏允は愛妾兩人有之、其者共を誘引、亭並八幡の祠を設置、其邊に池水有之に船を浮罷在候。其所え妻盃持參酒を勸候へば、宵より餘程酒も給候故、酒は無用と申候。妾にも給候樣にと勸候所、是も内藏允を見合、酒は被下間敷旨申候。妻強而申聞候得共いやと申に付、左候はゞ我等給さし可申旨に而一つ給遣候へば、妾もいたゞき申候。其時内藏允申候は、いやと申ものを無理に爲給候は、人に毒飼仕与申ものに候よし申候。妻承り、至而短氣なる生れ付に候故、毒飼仕候とは難心得事に候。左候得者あのものどもへ毒をあたへ申ものと思召候哉、私も給遣候と申候。内藏允たとへて申候へば左樣の筋に候と申所、人に毒飼仕と思召候而者生而居候而無詮仕合に候、覺悟仕候旨申、其儘より入水仕候。内藏允あわてゝ飛入引上候得共、水深く彼是仕候内水餘程給申候。岸え引上、内藏允は内所え入申候。兩妾は泣さけび申候。其日御成に付、御小人頭園田理右衞門と申者詰合未罷歸候。此者承付かけ出候而、妻をいだき内所へ引入申候。水を二三升も吐候。藥等用、彼此仕候内に夜も明申候。乳母申候は、氣色も不宜相見え候。里え罷歸遂養生申度旨申候。内藏允承候而、如何樣共いたし返し可申旨申に付、乘物にかき載、十二日朝弟源右衞門方え罷越候。[四郎太郎改源右衞 門、今年十七歳。]右内藏允妻は、元來先年定番頭伊崎所左衞門嫡子彦右衞門方え嫁娶申談候。其媒介は江守角左衞門・原田又太夫等に候。近々願書附茂可指上と示談有之砌、右女子えかくと爲知候處、一園合點不仕候而申候は、我等事乍女淺井家之惣領にうまれ居候に、所左衞門嫡子彦右衞門体の小身もの、家筋も不慥方え罷越候事は得仕間敷候。父源次郎殿御存生も候はゞ、ヶ樣にては有之間敷候。四郎太郎幼少、其上母儀も無御座候故、一家中ヶ樣に被仕候事と存候。所詮一生嫁娶は仕間敷候とて、手自髮を斷申候。各あきれ候得共可仕樣も無之事故、角左衞門を以かくと所左衞門に爲知申候所、所左衞門父子承之不是非次第に候得者、勿論其通一生嫁娶仕間敷と申趣にて事濟申候。左候はゞ其妹をもらひ可申と申儀にて、妹と婚姻奉願候處願之通被仰付、近年致嫁娶候。右之仕合故、何方えも嫁娶相談に不及候。然所去秋御歸國以後、大槻方え申談度旨、四郎太郎一家故菊池十六郎・金森多門等え申來候得共、右之趣を以斷に及候所、或時御近習に而定番頭遠田勘右衞門儀、十六郎迄申聞候者、内藏允え縁者之儀、其身存寄迄に而も無御座、御前にも可然思召候。何とぞ示談相調候にとの儀に付、伊崎との趣申述、畢竟侍中えの相談は難成ものと一家共存寄、其内一向坊主などえとらせ可申哉と申趣に御座候由申達候處、内藏允、一々内證の事は合點に而御座候。少も不苦候間申談度と、重而勘右衞門を以申鬪候。伊崎手前も、是は格別之筋、如何樣共と申趣に相成、急に内談相調、十一月朔日嫁娶も調申候。其時分淺井方よりは江守角左衞門、大槻方よりは御近習の内關屋長太夫罷出、双方申談候。此縁談未相極内、前角御馬廻組長瀬藤太夫方に再嫁を望候娘有之儀、内藏允承及候而申談度旨申懸候所、藤太夫同心仕斷に及候。夫故淺井え申談候由に候事。
 淺井源右衞門方え引取置候故、最早義絶可仕外無之候故、淺井方より書付も出し引取可然と示談候得共、十六郎以下僉議延々に候内、内藏允より離別の書附も上之、不縁之由源右衞門方え書状を以申越候而事濟候。
 如此に候處無間源右衞門病死仕候。源右衞門妻は前田修理殿娘にて、願上り申迄に而未仰出候内、源右衞門六月廿日比病死仕候。但右源右衞門家忌中に願之通被仰出、妻は廿日遠慮之格に候。然處其娘を内臟允再縁申合度旨修理殿願に而、御發駕前七月四日(元文二年)急に被仰出、縁談申合候。離別の妻の兄(弟カ)の妻に候處、夫を以て再縁仕候も、又其家え我娘を遣候も、共に言語同斷之事にて、修理殿は七十有餘に候。委く子息大學取裁に而相調候由。此女元來小塚新左衞門縁組申合候處、新左衞門病死に付淺井と申談候。然者最初は小塚新左衞門、二度目は淺井源右衞門、三度目は大槻内藏允也。
〔浚新秘策〕