石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第四章 加賀藩治停頓期

第一節 大槻騷動

朝元の祖父長左衞門は、寛永前田利常に仕へて御鐵炮者となりし人にして、御鐵炮者とは放銃の事を職とする足輕なり。長左衞門に三子あり。長を七左衞門とし、次を六郎右衞門とし、季を長兵衞とす。而して七左衞門と六郎右衞門は祿せられて持弓足輕となり、長兵衞は持筒足輕に任ぜらる。七左衞門、藩士別所三平の臣上田氏の女を娶り、三男一女を擧ぐ。長子家を襲ぎ、亦持弓足輕となりて七郎左衞門と稱せしが、後累進して組外組(クミハヅレ)の士分に列し、二百八十石を食めり。次子は長左衞門といひ、叔父六郎右衞門に養はれ、持筒足輕より鷹方御徒(オカチ)となり、定番御徒小頭並に進み、知行百石を賜ふ。この長左衞門に三男ありしが、長を長太夫と稱し、御坊主頭より登庸せられて馬廻組の士に列し、四百五十石を祿せられ、次を長次郎といひ、新番組に徴せられて百三十石を食み、季を七之助といへり。而して長左衞門の妹は持筒足輕園田理左衞門に嫁したりしが、理左衞門も亦榮遠して定番御徒小頭並となり、百石を受けたりき。問題の人朝元は、上に言へる七左衞門の第三子にして、七郎左衞門及び長左衞門の弟なり。