石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第六節 社會種々相

當時最も甚だしく士風の廢頽せるを證すべき實例に城尾屋事件あり。本件は、延寳元年金澤南町の市人にして盲者たる城尾屋惣右衞門が、士家の子弟を教唆して惡行を働かしめたるものにして、その所謂惡行なるものゝ内容は、武家混目集に、『此者共犯罪は、遊興女色にふけり、過分の金を費し、剩へ町人城尾屋が巧に一味し、金利潤の方便侍に不似合行状共張行故、右被仰付者也。』とあるによりて、略之を明らかにするを得べく、その金利潤の方便といふものは賭博を行ひし類なるべし。この年十二月事露顯したりしが、當時藩侯綱紀は參觀して江戸に在りしを以て、老臣等書を裁して之を告げしに、綱紀も亦二年二月四日自筆の書を以て老臣訓諭する所ありき。曰く、我が内這次惡行の輩を生ずるに至りしもの決して怪しむに足らず。蓋し方今名門巨祿の臣僚を初として、行跡の正しき者甚だ稀なればなり。然りといへども、此等の徒も素より生まれながらにして不良なるにあらず。若し政道にして宜しきを得ば、之を薫化すること亦困難にあらざるべし。されば今より後、當局の採るべき方針に就きて大に研究する所あらざるべからずと。是より先、城尾屋は直に逐電して踪跡を晦したりしが、三河國池鯉鮒に於いて藩士鶴見三丞等の發見する所となりて斬殺せられ、次いでその遺骸を金澤に送致して檢視を經、その他一味の士人にして死刑流刑以下に處せられたるもの、凡べて二十一人の多きに及べり。

 去年城尾屋一卷に付被御吟味上落着之品。
 御小將組權右衞門せがれ脇葉傳右衞門  延寳元年十二月缺落す。同二年江戸へ罷越、江戸にて三月六日刎首
 脇棄權右衞門甥山口源太兵衞  延寳元年十二月缺落と云共同二年に立歸、權右衞門組頭迄斷、權右衞門方に有之。今年(延寳二年)五月五日水野八郎兵衞に御預け、六月廿七日能州島八ヶへ流罪。
 御小將組鶴見勘左衞門子鶴見文内  廷寳元年十二月缺落す。奧州會津保科領にて、同二年弟三丞行逢いざない歸。彼地にて法心(發)し落髮體也。横山隼人に御預け、八月十四日切害被仰付
 御馬廻組藤右衞門子山森彌五作  延寳元年十二月缺落す。同二年五月十五日仙石三右衞門御預け、六月切腹
 金澤町人城尾屋惣右衞門  延寳元年十二月缺落す。同二年三河池鯉鮒にて高田勘右衞門家來并鶴見三丞討留。
 御小將組市郎右衞門子野崎甚五兵衞  今年五月十五日岡島内膳御預け、六月廿七日切腹
 御小將組勘兵衞子横濱七右衞門  今年五月十六日件八矢御預け、六月廿七日切腹
 傳右衞門弟水野小右衞門  今年五月十五日青山將監御預け、六月廿七日切腹
 大音主馬家來水尾源左衞門  今年五月十五日成瀬八郎右衞門御預け、六月廿七日切腹
 右回斷稻塚兵右衞門  今年五月十五日前田權之助御預け、六月廿七日切腹
 御小將組脇葉權右衞門  今年正月廿八日逼塞五月十五日水野八郎兵衞に御預け、延寳三年二月能州島八ヶへ流罪。
 右同斷鶴見甚左衞門  今年正月廿八目逼塞、五月十六日深見右御預け、同年御赦免
 右同斷横濱勘兵衞  今年五月十六日閉門、八月二日開門。
 御馬廻組山森藤右衞門・御小將組野崎市郎右衞門  此兩人今年五月十五日閉門、十月十日開門。
 權右衞門聟山田半内  今年五月十五日閉門、延寳五年開門。
 さやし(鞘師)長右衞門  延寳三年二月二十四日獄門。
 長右衞門せがれ大音又八家來吉彌・豐丞 此兩人殺害
 卯辰善行寺  追放。是は脇葉傳右衞門中歸仕節圍置故也。
 御書物役水野安右衞門  御扶持被放。是は城尾屋方より状之取次仕故也。
 長尾平左衞門家來  成敗
〔菅家見聞集〕