石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第五節 浦野事件

頼朝の時より以來、長氏の血統加能二州に連綿たること、こゝに殆ど五百年に垂んたりしが、その間家運の危機に瀕したること兩次。一は戰國末期に於いて長續連等が遊佐續光の爲に弑せられたる時とし、一は浦野孫右衞門長連頼の家政を紊りたる時とす。而して連頼は寛文十一年三月卒したるを以て、十月九日綱紀は約の如く孫尚連をして遺領三萬三千石を襲がしめき。尚連時に十歳なり。次いで十月二十二日江戸より命を傳へて、長氏の領知所替を命じ、その實收入に於い稍不利ありしを補はんが爲に、別に尚連の弟連房に千石を食ましめき。抑加賀藩がその臣僚を祿するときは、釆地を領内所々に散在せしめ、以て彼等勢力の増大を防遏するに便ぜり。然るに長氏の如く、一郡の半に集團せる大面積を有したりしものは、祖宗以來の歴史によりて然りしものにして、前田氏施政の方針に反し、統御上不便を感じたることは勿論なりしなり。况や長氏は、その所謂御旅屋敷を田鶴濱に置き、常に家士を駐在せしめて領内行政の中心たらしめしのみならず、連頼の慶安三年を以て東嶺寺造營したりしは、明年父連龍の三十三回忌に當るを以て、その菩提を弔ふにありたりといへども、規模甚だ廣大にして石疊を築き塹濠を繞らせる状、決して尋常一樣の伽藍に似ず。長氏前田氏に雌伏しつゝも、尚能登の豪族たりし疇昔の夢を趁ひ、中にを作り、有事の際に於ける根據地を設けたるに非ざるなきかを疑はしむ。此の如きは實に前田氏の深憂たらざる能はざりしなり。綱紀即ち長氏一家の内訌に乘じて之を收め、代ふるに領内散在の釆邑を以てし、以て一統の政を施したりしは、頗る機宜に適したる處置にして、多年爲さんと欲して爲し得ざりし所を敢行したりしなり。

 一、故九郎左衞門(連頼)跡目之儀、久敷知行に候間、如前々仰付度被思召候得共、寛文七年故九郎左衞門家來浦野孫右衞門父子一類縁者大勢申合、九郎左衞門領分の百姓かたらひ、企非義徒黨候儀、常々故九郎左衞門仕置惡故に候。公儀の御例に候へば、改易仰付知行所替仰付候。就夫故九郎左衞門儀茂知行所仕置不宜故に候間、所替仰付然旨、肥後守(保科正之)樣初各御談合候得共、何茂如存、加賀守綱紀)樣思召、如庵(連龍)儀故大納言(利家)樣以來忠功之筋目故、九郎左衞門儀茂律義に相勤候間、是非共此度者御用捨、如前々指置旨強而被御達、其通被仰付候。雖然右之就惡逆、家中侍之内又者故九郎左衞門知行所之百姓等に至るまで、若遺念之者在之以來惡徒發起仕候歟、且又當九郎左衞門(尚連)仕置不宜候而出入等出來候へば、加賀守樣御仕置不宜故与相聞、第一御爲惡敷候。其上九郎左衞門儀は進退果申事に候へば、年來久續之長家及滅亡候。以此故今度所替、御家中如並被仰付候。九郎左衞門儀は勿論、於家來共能存此旨候ば、却而可悦儀候事。
    十月二十二日(寛文十一年)                       奧 村 因 幡
〔長家文書〕