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石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第五節 浦野事件

口上之覺
 一、拙子家來浦野孫右衞門一家之者共、去年より不義仕合有之、未落着候。就其跡々より右之者共對拙子不屆之儀ども、致覺書御目候。存入之通御相談申儀、無御隔意仰聞下候事。
 一、古浦野孫右衞門不屆之儀有之扶持放候處、孫右衞門儀於豫州相果候。子共歸參之儀普代之者共詫言申に付、當孫右衞門并弟・子共歸參申付候。舊好を存立歸者之儀候間、孫右衞門望次第・弟・子共知行之候。或家來の内へ養子に遣、或は娘・妹共迄我等口を添縁付、重々存儘なし遣候處、驕付、あきたらぬ事に存、彌一類大かぶになり、家之榮を專有、末之せがれ弟共之儀に付、色々うけこいをいたし、末之妹・孫娘誰方へ遣くれ候へと、我等家中頭を上候者縁者になり可申存念。さて又拙子家來之内阿岸と申者、家相續子なく、家絶申候間、孫右衞門せがれ掃部若輩之時分より名跡申付、知行四百石遣、與(クミ)頭に申付候處、阿岸先知六百石之間其通仕度存、色々てくろふいたし候。歸參之後、跡々拙子領知へ孫右衞門貸米之處、浪人之後被召上候間、右之貸米返しくれ候へとさま〲申候間、遣候はねば我等の欲左樣有之故、過分之子遣之候。此等之事はじめ、欲にふけり、一門親類之取合、依怙贔負之仕合數多有候。さて又餘人跡目、新知・新加・褒美など遣候へば、常に孫右衞門取入もの又他人などは、ヶ樣のもの如此可仰付事には無之候。あまり結構成被成樣御無用に候。加樣於仰付者取次仕間舖と申。孫右衞門所存大キ不道存候。ましてせがれ掃部、毎度拙子申出候事防候。若き者は能事を申さへ遠慮ある事候。ましてわけもなき事申、私之遺恨を以て傍輩の事を惡敷仕なし候事、重々不屆存候。殊更不禮之仕合、去々年長午助・宇留地平八・河野三郎左衞門・堀内彌兵衞物頭に申付候。此取次掃部・加藤釆女兩人に申付候。然處午助・彌兵衞事浦野一家と中よからず候故、掃部取次仕間敷よし斷申、直に我等前へ出、是非とも取次御免候へと申捨、終不申渡歸家候。其後釆女一人を以申渡候。さて又彼者一門共へ遣候もの、少にても孫右衞門氣に入不申事は散々腹を立、人々の事はさげすみながら、内縁を以さま〲てくろふいたし、種々てだてを以我等をだまかしてのあしき事共際限無之候。初之ほどは色々つくろいヲ申、まことしく候之故申旨にまかせ候。然どもあまり欲ふかく、不義成事共候間、近年は跡々のごとく用等不申付、さのみ申事を用不申付、三四年以來殊外恨存躰候。併孫右衞門せがれ・弟十餘人・一類數人高知遣、外聞よく召仕候。然處甲事等申付候事うすくなり、各訴訟相叶候と、理もなき事恨、大恩をわすれ、我等にたてつき申候事不屆千萬に候。重々不忠之仕合候間、三四年以前急度可申付存候へども、他國有付罷在候を、普代の好申立呼返し、程なく何角申付事遠慮存、ためらい申候。孫右衞門隱居度旨申候間、幸に存望之通申付候。然ども万事指出不屆成事は、前々より彌増申候事。
 一、孫右衞門歸參之後、故加藤釆女兩人に、拙子家の裁許申付候。釆女事は十一兩年以前相果申候。釆女替り他人を申付候事をそねみ、色々ぶぢよくを申間、餘人を申付無首尾之事仕出し候而は却而如何存、其節似合敷ものも無之付、申旨にまかせ、孫右衞門・兵庫・掃部親子三人、宇留地平八と申者孫右衞門聟にて候、此等を指添家之裁許申付候。然所私之儀をいたし、依怙贔負成事私曲ども有之候。拙子能召仕候者、近習外樣にも不寄にくみそねみ、近習の者共を以申出候事候へば、此儀誰之取次に而候哉、かやうに我々を御へだて候而は、御用之事を取持申まじく候、最早御奉公も不罷成と申。又はかの共方へ取次を以申付候事、ぬし〱勝手にのらぬ事は、かやうの事上には何とて御存知可之候哉、是は内縁を以申者有之、又は近習のもの内證を申上故、如此被仰出候。脇よりさしくわへ仕候儀は各裁許仕間敷旨に而、中にてさまたげ、又は家之仕置之事は、各一門外には脇より被仰付候事は成間敷候。家久敷ものゝ職候聞、他人仕におゐては一類かたまりさまたげ可申と、おし出し惡口を申。此等之不屆之事は難筆紙候。ひとへに拙子申事を背、近習の者どもおしつけ、我意を專に可仕覺悟、不忠至極候事。
 一、孫右衞門事、拙子知行方用事申付由に而、毎年能州へ罷下、諸奉行十村百姓と心を合、色々てまわしをいたし、私用に百姓を仕、拙子新開申付由に而、能所は主々開取、我等米・平夫を以自分の用所達候事數多御座候。知行所用事等、仁岸權左衞門・永江善助と申もの申付置候。善助娘孫右衞門養子にいたし、權左衞門弟權之助と申者左兵衞近習に心安召仕候。此者方に縁付、眞親子之樣いたし、色々内通を以て仕度儘之事數多御座候。右之者共孫右衞門權をかり、山林竹木・貸米貸銀・諸役銀米・新開之裁許之品、後くらき事共御座候。其外領内百姓中新米手又者菜種手、藏方の拂米之手廻し、百姓之費我等之爲不食事。
 一、侍並百姓下々躰迄、孫右衞門にへつらい不申者殊之外にくみ、拙子家にもたたずみかね候やうにいたし、万事訴訟之事、下に而頼候用事をも不聞入由候。跡々より承及候。我等へ奉公も仕候筋目を立申者は、却而へつらい者と致惡口、そねみにくみ候。さて又孫右衞門取入、一所に手廻しなど仕候者は、御國にも無之分別者、殘りの侍中は百姓よりもおとり候などゝ、我等屋敷に而も無遠慮申、かたおち成事數多御座候。米かしもの、作事所・料理所にて後くらきいたし樣數多御座候。此段露顯之事候。其上第一我等不屆と存事は、私曲虚妄の事に而は無御座候。家をくつがへし可申と仕心中は憤存候間、其餘之事者略仕候事。
 一、孫右衞門隱居候後も、金かし米裁許仕候間取上、兵庫・掃部・釆女裁許申付候。兩人之子共へ釆女さしくわへ申候は、孫右衞門私曲うたがひ申かと徒黨之者共腹を立、金米渡し申間敷といぢばり申候。何角申度まゝの仕合候。如何存候哉其後金米少々相渡し候。算用帳は未出不申候。幸下裁許の者共有躰に申聞候。加樣首尾世の中には御座有間敷候。にくき仕合存候事。
 一、浦野先祖景連と申者有之由に而、四五年以前に新規景連の像を作り、能州土方領内山田と申所堂を立、兵庫家來などにつり鐘を爲寄進、結構成躰に候。此景連と申は、拙者も承不及候者御座候へ共、主々末世の爲と存造營仕、剩土方河内殿先祖の碑立候。拙子より土方殿へ内通も可之かと、殿樣思召之程乍恐迷惑仕候事。
 一、重々不屆者、其上彼者共方よりも奉公身にしめ不申候故、一兩年仕置等さしてかまはせ不申候。か樣之事を大きに恨存躰御座候。身の惡をかへり見ざる不道者え、用等跡々のやうに不申付候ひき。組頭は本のごとく申付、其外迷惑に存事も無御座用所は、おとなしく呼出し申付候。孫右衞門裁許金米取上候事、前にも如申候恨に存よし候へ共、兩人の子共へ申付、釆女指添候計を恨に可存事に而は無之候。歸參申付、二十餘年に罷成候。其間色々申儘いたし遣、家富子共繁昌之体、家中に人なきやう御座候。殿樣へも父子兄弟四人迄眞先へ御禮申上させ、種々大恩を蒙候。恨存事は御座有間敷事に候。身の科を可申晴ため我等訴かへす事、不忠至極存候事。
 一、十二三年以來、領内猥成仕置、山林竹木伐荒、宮地・さんまいに至迄致新開、或過分隱開をいたさせ、或百姓開置候所を掠取、仁岸・永江・村井七兵衞其外孫右衞門一類共、少宛開をいたし度と斷申候間、少之荒地に候はゞ如何樣にも勝手次第と申出し候へば、五ヶ村十ヶ村之荒は各へ被之由申、野山を不謂開取、跡々百姓之開置候所をも各へ被下候と申掠、百姓共へ状を遣候。則其状も見申候。迷惑仕候百姓は大分に御座候。十村其外一味之百姓は、互に隱開仕候者迄、孫右衞門裁許悦申由承及申候。如此になし置候而は、以來彌分も有之間敷存、去春より新開改申付候。然所惡事おもひの外彼者手前に多知申候。未孫右衞門・兵庫知行所は改不申候。致吟味候者、たまりがたく存事も可御座候躰候。かやうに改仕候も、全百姓をむさぼる心得にては無御座候。拙子年寄申間、一兩年之内隱居候御訴訟申上候而、左兵衞(元連)に家を讓申度心得御座候故、猥成所は糺明可申と存候。其故新開出分、去秋收納仕候。此吟味孫右衞門並一門共虚妄を仕候。十村迷惑仕躰御座候。近年孫右衞門一類之外、新開仕候者一人も無御座候。是に而私曲之程可御推量候事。
 一、去年春兵庫・掃部暇をもらひ度よし、左兵衞方へ斷申候。此申分、拙子仕置惡敷を諫儀に而は無御座候。其子細は、主人の爲を存異見申爲躰に而毛頭無御座候。讒言にあい迷惑申立、一門並縁者等迄呼集、兩人暇もらい候上申聞、志ふかき者どもへは誓詞書合連判仕、存亡一所にと申合、二十餘人番等并役儀相勤敷月引籠罷在、申度儘を申、御昵近衆他家中にも縁を求、籠居之内にも罷越、各樣者讒言にあひ、九郎左衞門(連頼)仕置あしく候之故、侍・百姓に至迄たまりかね申候間、我等共先暇をもらい可罷出と、拙子惡名を申立候事。
 一、下々おどしの爲に候哉、又者身の科重候故候哉。縱暇給候共むざとは罷出間敷候、連判一味之者申合、常々遺恨之者共方へ切込、下屋敷中に火をかけ、おもひのまゝ恨晴可申とおし出し申ひろめ、鑓・長刀・鉃炮など致用意、逆心の色を顯候。拙子爲を存候とは努々難申候。身を捨命をすて諫言を申、主人の惡を隱善を進、可亡時は脇をそこなはざるやうにいたし、とにかくにも主人の爲を能いたし候を忠臣とも可申かと存候。左樣之心得とは各別之もの共に御座候。私之宿意を以て主人の家をくつがへし申候は、臆病の至かと存候事。
 一、家來の者共へも近年宜申付候。跡々孫右衞門不裁許故、少々我等恨申考も御座候故、賞を與申迄に而、罰申付候事は且而無御座候。恨を存候と申者共は、彼一類まけ腹を立申者二十人計之外は、毛頭恨存者無御座候。百姓中も私曲仕十村之外は、恨に存者も無御座候。近年領内もくつろぎ申樣に申付、度々百姓中書付を以悦の禮申事御座候。委申入無詮事御座候間、其品不申上候事。
 一、去夏斷申節、急度成敗申付と奉存候處、左兵衞・右近(横山)色々致詫言、此般は不承躰にいたし堪忍可仕候。兩人方より急度しかり、早速出し可申と達而申候故、兩人に打まかせ置申候處、左兵衞・右近申事も承引不仕、數月引籠、三月廿五日より五月十六日に漸屋敷へ罷出候。併左兵衞・右近口入に依て罷出候上は、心得もなをり、身にしめ奉公も可仕かと奉存候處、一圓屋敷へも不罷出、用事書物判形等不仕。私去秋より相煩罷存候にも、ろく〱見舞不申、方々遊山罷越、御昵近他家中迄致徘徊、拙子へ無沙汰仕候事、前代未聞之作法御座候事。
 一、二十人計一味徒黨之外者、傍輩中へも不交、番所に而も無言に仕罷在候。かくを立罷居候。加樣之仕形、拙者爲を存とは難申候事。
 一、跡々より拙者下屋敷中爲縮、夜廻り足輕出し申候處、孫右衞門直々申候は、氣遣候砌孫右衞門一家之者共の事を聞出し可申ため廻り候哉。左樣に候はゞ、たとへ誰々不寄闇打にいたし候か、鐵炮に而打殺し可申候間、屋敷廻り近付申間敷旨申由候。右之足輕共五六人斷申候。拙子申付候處、如此申事につき仕合(脱字カ)御座候事。
 一、去月五日十村共呼寄、百姓助成之儀共申渡、早々罷下耕作等可申付旨申渡候處、畏旨申候而請を調、町屋へ出罷在候。孫右衞門すゝめ申故、十村ども連判を以、左兵衞方へ書付出し申候。其意趣は、去年檢地申付候儀迷惑存候由斷申候。乍去右申候通、收納も不申付、其上百姓助成之事一兩年數ヶ條申出候上は、達而迷惑仕候とは難申事御座候。ぬし〱知行新開檢地入申候へば、彌惡事顯迷惑仕事御座候故如此申候かと存候。其外品々書付は、孫右衞門一家又者古奉行共申わけを書載、わけもなき事に御座候間、具不申入候事。
 一、孫右衞門一家より百姓すゝめ申樣子は、則一味之村肝煎歸忠之者御座候而、委致白状候。其上孫右衞門一家之者共、去年のごとく役儀番等不相勤籠居者も御座候。右左兵衞方え之書付、孫右衞門・八郎左衞門・兵庫・掃部充所に仕、其外之年寄共は指除申候。一味いたし候村肝煎二十人計、脇百姓三十人程御座候。何も孫右衞門一家之百姓迄に御座候。殘百姓共、私仕樣下々申分無御座と、村肝煎數十人誓詞連判を以申斷候。八幡を以て此方より不申付候事。
 一、孫右衞門方へ一味之百姓共は、郡奉行代官申付候事そまつに仕、爰許にては知行所に而一揆を起候樣彼一家中ひろめ候事。
 一、身の上の科を難儀に存、百姓をかたらひ、其のみならず近頃申にくき仕合御座候へ共、拙子・左兵衞間も惡敷樣に仕度、色々からくり仕候。前代未聞仕合御座候事。
 一、常々兵庫・掃部屋敷へろく〱不相詰、用事等早速埒明申候事も埒明不申。近習に召仕候者を以用所申付候へば、主々不承儀と申候而埒明不申。一紙一錢之事に而も他人に爲仕申間敷申、拙者申付置儀さへ、主々氣に入不申者候へば、申出旨を同心仕、拙子へ心入之奉公之躰少も無御座候。惣而私事終一言諫言申事も無御座候。勿論内證之事も不申聞、去春より惡事を申立、左兵衞方へ申儀は不屆之仕合御座候。身命を打捨諫言申こそ臣家とは可申候に、我意を可立ため理もなき事を申、一家之者狂氣之樣存候事。
 一、今度百姓共書付出申候共、常々申付置候郡奉行代官を以可出之處、彼惡徒人共頼申候而出し申候。孫右衞門などは、百姓之存立指圖不仕候と誓詞出申由御座候へば、百姓之出入少も構申間敷候之處、一門方へ百姓呼寄、色々致談合晝夜寄合、左兵衞方へも罷出、樣々談合いたし、左兵衞方より百姓下し申候樣申付候へ共、左兵衞かろしめ下し不申。百姓書付にも、孫右衞門・兵庫・八郎左衞門・掃部書のせ申候事、一味同心に而は無御座候哉、わけもなき儀聞入申間敷殘三人年寄共除申候。如此仕候上は猶以一味顯申候。知行所者共迷惑可仕事御座候者、一統に年寄共へ郡奉行代官を以可斷儀かと奉存候事。
 一、今度百姓共書付出申候刻、籠舍申付置穿鑿可仕と奉存候處、左兵衞・右近・八(伴)矢など、其段はゆるし、早速知行所へ堅申付可遣と申候付、先致堪忍申候へば、漸四五日以前罷下申由御座候。申度儘を申させ候と奉存候事。
 一、惡徒人共之儀、私下に而も可申付樣御座候へ共、右に申候ごとく大惡之者共に御座候へば、自然家にも火を付、又者むざとあなたこなたへ飛出申候へば、騷動仕可申候。左樣御座候へば、殿樣御爲かとも奉存候間、孫右衞門親子兄弟并平八と申者、公儀より拙子孫共并聟・咄申方へ御預被成、百姓之儀は公儀籠へ被入置候而御吟味被仰付、拙子非儀仕候哉、又彼者共前代未聞なる仕今御座候哉御尋被成、私之儀不屆被思召候者、如何樣になり共被仰付、又惡徒共不屆思召候者、私存候樣被仰付下候者、有難忝可存候。何も於御預者、跡々仕廻拙者可申付候事。
    後二月十五日(寛文七年)                       長 九郎左衞門 在判
      本多安房守殿  横山左衞門殿  前田對馬殿
      奧村因幡殿   今枝民部殿
〔長家後證筥雜記〕