石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第五節 浦野事件

是より先、孫右衞門は寛文元年退隱せんことを請ひしかば、連頼は大に喜びて直に之を許し、子兵庫をして家を襲がしめ、孫右衞門養老封二百石を食ましめき。是に於いて兵庫は弟阿岸掃部と共に事を執りしが、孫右衞門は尚主用なりと僞りて屢能登に來往し、諸奉行十村農民等と謀りて奸曲の行爲愈多きを加ふるが如くなりしかば、連頼は之を摘發せんと欲し、五年突如として領内の新開檢地を施行するの命を發せり。この事に關しては能州所領書に『今程天下泰平にて弓矢治り、華麗のみに成て入用は過分也。關東武藏も田畠に成候。我等家中の者共能州に居て、何茂暮しも宜敷也。兎角半郡へ竿を人改め見んと思案して、家老へも不相談、三宅善丞を半郡の檢地奉行として其支配被仰付也。』と記すといへども、此の如きは表面を糊塗する宣傳にして、實は浦野一黨の奸譎を發くに在りしなるべく、且つ連頼をしてこの擧あらしめしものゝ加藤釆女等なりしことも亦之を想像し得べし。かくて檢地奉行は、三月二日酒井村に竿入したるを初とし、金丸村に及びたりしが、時正に農繁期に際したりしを以て中止し、九月廿四日收穫を終りし頃再び曾根村より檢地せしに、彼等の所爲漸く明白となりたりといへども、尚孫右衞門等の所領を調査するに至らざりき。これ彼等をしてその不面目に堪へざるの苦境に陷るを免れしめんが爲なりしといふ。然りといへどもその内情皆僚友の知る所となり、惡名日に高かりしかば、彼等は遂に窮鼠反りて猫を噛むの状を學び、兵庫と掃部とは六年三月二十四日連頼の子元連及び其の妹壻横山右近守知に書を上りて致仕を請ひ、翌二十五日以後その家に籠居しながら、窃かに一門親類二十三人を會して存亡生死を一にせんことを誓ひ、若し主君にして暇を賜はらば徒らに退去するを欲せず、平素遺恨ある反對黨を殺害し、下屋敷に放火せんと廣言し、器仗を備へてその威を示したりき。一味の誓書に『九郎左衞門樣・左兵衞樣御爲第一奉存、諸事御相談可仕御事。』といへるは、單に表面を糊塗せしに過ぎず。
天罰起請文前書之事
 一、互に相異申迄は、九郎左衞門(連頼)樣・左兵衞(元連)樣御爲第一奉存、諸事御相談可仕御事。
 一、此度御爲之儀に付、生死如何樣に罷成共、此連判之者一所に可罷成御事。
 一、此度之儀以來互に隔意罷成共、毛頭他言仕間敷御事。
 右之條々於僞申上者、忝も梵天帝釋四天王、惣而日本國中六十餘州大小神祇、殊白山妙理大權現・八幡大菩薩・天滿大自在天神神罰冥罰、各々可罷蒙者也。仍而起請文如件。
    寛文六年四月五日
               浦野孫右衞門   浦 野 兵 庫   阿 岸 掃 部
               中村八郎左衞門  駒澤金右衞門   宇留地平八
               阿岸友之助    關  左 近   櫻井次郎兵衞
               是清傳左衞門   上谷八左衞門   永 江 善 助
               伊久留八丞    飯坂源右衞門   岩間覺兵衞
               田屋六郎左衞門  仁岸權之助    仁岸權左衞門
               長谷川吉右衞門  平井六左衞門   粟津十兵衞
               田遷七郎左衞門  村井七兵衞
〔浦野一門連判誓紙〕