石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第五節 浦野事件

長氏の家臣は、初めその封地能登の田鶴濱に住するものと、金澤の居舘に住するものとあり。之を以て兩者の間、自ら意見の乖離するものあるを免れざりき。慶長十六年連龍の子好連歿して嗣子なし。時に家臣高田與助以爲く、連龍に尚一男二女あり。その女子は皆未だ嫁せざるを以て、前田孫四郎利政の息にして御坊と稱せらるゝもの及び連龍の姪聟松田太郎兵衞の息小市郎を迎へて贅壻となし、好運の弟左兵衞連頼と三人の間に鹿島半郡の領を配分せば、長氏の枝葉益繁榮なるを得べしと。御坊とは後に前田直之といひしものなるべし。與助乃ち先づこれを太郎兵衞に謀る。太郎兵衞曰く、諸老臣にしてせば我に於いて亦異議あることなしと。與助、田鶴濱在住の諸士浦野孫右衞門の指揮に屬し、齊しく之に反對せんことを憂ふ。乃ち老臣横山氏の士土田將監に謀る。將監曰く、須く公用に託して孫右衞門金澤に招致すべし。我卿の爲に彼をその途上河北郡黒津に邀へて害せんと。與助之を容れ、急使を發して孫右衞門を迎ふ。既にして孫右衞門高松に到れば、又急使の來りて書簡を呈するものあり。披きて之を見るに、與助を喜ばざるものゝ彼が陰謀あるを告げしなり。孫右衞門警戒を嚴にして進みしが、遂に敵の害を加へんとするものを見ざりき。蓋しこの日將監、病に因りて黒津に至る能はざりしなりといふ。孫右衞門金澤に入るや、直に本多政重に至りてこれを告げ、好運の後繼を連頼一人に定むるが爲力を致されんことを請ひ、幾くもなくして田鶴濱に歸れり。後連龍が藩侯の許諾を得て、連頼を嗣としたるもの是に因る。孫右衞門長氏譜代の郎黨にして、秩祿六百五十石を食めり。