石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第二編

第三章 加賀藩治恢弘期

第四節 極盛極治

かくて八月に入り、綱紀は將に暇を得て國に歸らんとしたりしに、この時領内窘扼の報頻々として江戸に達せしかば、その行程を短縮すること三日にして、同月十一日金澤に着し、當時二ノ丸の殿閣修營中なりしを以て蓮池邸に入り、月番年寄前田孝貞を召し、藩吏が救恤の法を謬りたる爲、領民中餓死するものあるに至らしめし失政を譴責し、算用場奉行和田小右衞門・小寺平在衞門二人に閉門を命じたりき。蓋し小右衞門と平左衞門とは、曾て屢窮民救濟の必要なることを老臣に稟請せしものなるが故に、その罪決して問ふに足らざりしといへども、孝貞がの重臣にしてその齡亦甚だ高かりしを以て、責任を財務當局の吏に負はしめたるなるべく、二人の謹愼綱紀が窃かに彼等の食祿に相當する金を與へしめたるもの、以てその意のありし所を知るべしといふ。尋いで綱紀藩政の要路に在る者を戒飭訓諭し、孝貞と本多政長とに老齡を理由として退職を命じ、長尚連・横山任風をして之に代はらしめ、人を領内に派して普く飢民に食を施し、又一面には改作奉行等をして農民困窮に陷りし原因に關する調査を爲さしめ、算用場奉行諮詢して財政善後の方法を確立し、その畫策施設する所甚だ多かりき。是を以て今年海内飢饉の状頗る酸鼻に堪へざるものありしといへども、加賀藩三州の領内に在りては餓死せるもの僅かに十五人に止れり。

 一、去年(元祿八年)御領國中不作、其上折々風吹、且又秋入之時分天氣惡敷、米不宜候付、米高直罷成候。百姓收納米致不足候へ共、家・野道具迄或賣或質物に入收納仕候。其にても皆濟仕候故、十村請合相對を以、侍分又は藏宿手前も皆濟仕候。此仕合故百姓元朝より給物曾而無御座候へ共、御借米を願つぐのひ可申より右之通仕候處、存外百姓共行當り迷惑仕候。十村より態乞食に出(ダシ)候者も御座候由申習候。
 一、十月頃より米段々高直罷成候。正月(元祿九年)彌直段宜敷、二月初ことのほか高直に成かゝり申候、御算用場町奉行相談を以、米延賣停止、三十日切と申事出來、事之外下直に相成候。
〔御近習向留帳〕
       ○

 此節町中飯米拂底に付、何茂致難儀候。殊御歸(綱紀)城被遊候得ば、只今より人多に罷成、彌飯米等手逼候得ば如何候。主人々々致了簡、一飯はをも可給候得共、家來之儀は左樣にも難致、飯をも可食候。乍然此節之儀御座候間、一飯は給候樣被申付宜在之旨、御年寄御列座に而横山左衞門(任風)殿被仰聞候。
 右御月番横山左衞門殿、仲間御用番津田求馬え被仰渡趣書記被相越候間、寫進之候。同組中御申達可之候。以上。
    七月廿九日(元祿九年)                        半田惣兵衞
〔參議公年表〕
       ○

 元祿九年歟、御領國大飢饉にて、夏中百姓等飢人多く有之候。其年九月初て御歸國之節越中境より段々御吟味被遊、御救ひ並に所により衣類迄も被下候御樣子に御座候。其時分二御丸御作事最中にて候故、蓮池の上御殿へ被入、未御道中御裝束の儘にて、前田駿河守(孝貞)御月番に候由、奧村丹波(直輝)御供にて罷歸、即駿河守を誘引にて御前へ被召、飢饉に付御救ひ延引仕候儀、如何の事に候哉。御預の御領分飢死仕候儀沙汰の限に候由、御直に以の外御しかり被遊。さすがの駿河守御請の品一言も無之、良久罷成候に付丹波申上候は、駿河守御請無御座と相見え申候、先退候樣に申、御次へ罷立申よし。其時の御樣子、金森内匠御奧小將にて御腰物をもち罷在、拜聽仕候。駿河守言(コト)之外致迷惑候體に候旨咄候旨、伊藤先々彦兵衞物語承り申候。此時御算用場奉行和田小右衞門・小寺平左衞門閉門仰付候。然共是は差て越度無之趣被聞召屆候哉、毎歳收納拂代程の圖りを以、御内々にて金等被下候由。駿河守不調法ながらそれ程にも難仰付、右兩人閉門仰付候哉と其節專取沙汰仕候。和田・小寺よりは、御救ひ米の儀度々御月番まで催促も御座候へども、如何の事候哉延引の由。且又米拂底に付金澤中も増水(ザウスヰ)を給候樣に、年寄中より觸も御座候。此儀別而越度に成候由沙汰に候。其以後安房守本多政長)・駿河守老年に付隱居被仰付候。其跡は大隅守(長尚連)・山城守(横山任風、當時左衞門)・美作(前田孝行、當時對馬)・丹波抔相勤申候。何も若手に成候由被仰出鹽川安左衞門・中村久左衞門御横目にて、年寄中席へ毎日出座仰付られ候。
〔中村典膳筆記松雲公夜話追加〕